英語教育私感(2)〈「文法」を教えると英語キライになるの?〉への反響から

先日「英語教育私感(1)〈文法〉を教えると英語キライになるの?」という記事をポストしたら、それなりに反響があった。
案の定「初期の文法教育に反対です」という御意見も。
ルールを知っていれば、演繹的に英語のセンテンスを構成出来るという考えこそまやかしです。仮に出来たとしても、それは英語に似て非なるものです。通じる英語のセンテンスを構成出来るようになるには、生きた英語のセンテンスの大量インプットと、アウトプットを通した成功体験の積み重ねが絶対に必要です。

文法教育は一通り英語でコミュニケーションが出来るようになってからで充分です。日本の英語教育の問題は、インプットにせよアウトプットにせよ英語に触れる絶対量の少ないことです。

今の英語教育で「生きた英語のセンテンスの大量インプット」が果たしてできるのだろうか。
義務教育の範囲で考えた場合には、それと引き替えに削ってよいものは何なのだろう?
「文法教育は一通り英語でコミュニケーションが出来るようになってから」という「一通り」とはどのくらいのレベルを想定しておられるのだろう。





おそらくまず最初に考えておかなければならないことは、英語教育の「出口」である。
どのレベルの英語リテラシーが日本人には必要なのか?

私見を述べる前に、もう一つ、前ブログへのコメントから引用しよう。
ときどき書き込み下さるClara Haskilさんのもの(私も大好きなピアニストのハンドルネーム)。
大隅さんの教育に対する情熱に敬意を表しつつ, 戦後日本の最も良き理解者であり, 友人であった Edwin O. Reischauer の "The Meaning of Internationalization" の一節を紹介したいと思います:
"Another major problem is that most English instruction in Japanese school is aimed at the wrong goals. Very little time is devoted to acquiring the ability to understand English by ear and expressing oneself in understandable speech. The chief emphasis is placed on grammatical analysis, usually presented in Japanese, and in attempting to learn to read difficult classical texts, which are of much less value to the student than is practical everyday spoken English."
"The learning of English is not seen as the acquisition of an exciting new skill but as one of the least pleasant aspects of the so-called examination hell. Most of a student's original enthusiasm for learning something new and useful is smothered from the start."

ここでの指摘は表面的には「日本の英語教育がリスニングやスピーキングを軽視していて、文法教育に重点が置かれている」ことへの警鐘なのだが、より重要なのは後段である。
英語を学ぶことが「新しい有用なスキルを習得する喜び」につながるものでなければならないことが指摘されている。

かつての「英語」の存在は、例えば大学の教養教育としての「英文学」に象徴されるような、「英語の本を読んで楽しむ」ことがかなり大きな目的だったのだと想像する。
私自身が受けた教育体系はそれを引きずってはいたが、中学・高校の英語教師に恵まれていたことに加え、両親がともに生物学者であったため家の中に「世界の研究者とコミュニケートするには英語が必須」という雰囲気が存在していた。
英語の論文を読んだり書いたりする(母が家でそんなことをしているのを見て育った)ことに加えて、国際学会で発表する(晴れの舞台)、国際会議でディベートする(言語レベルの戦い)なんてこともしているらしいと、憧れていた。

将来英語をどのように使うか分からない子ども達にとっては、英語は単なる学習課目であり「受験のためのスキル」となってしまうのだろう。
英語の先生にとってもっとも大事なのは「あなた達が大きくなったときには、英語を使って世界の人たちと遊んだり仕事をしたりするのですよ」というメッセージを伝えることなのだと思う。
「英語のスキルがあったら、世界が広くなるのですよ!」
どんな教え方であったとしても、この最初のメッセージでつまずいていたら、コミュニケーションの手段としての英語のスキルを学習するモチベーションを与えることはできないだろう。

さて、もどって、「どのレベルの英語スキル」が必要なのか?

もし、母語である日本語のコミュニケーション力と英語のコミュニケーション力が「それぞれ80%」くらいのレベルの人がいたとする。
こういう人材はどのように活用できるかというと、難しい。
第一言語で90%以上のスキルが無いと、遊ぶのには十分であっても「仕事」にはならないのではないだろうか?
つまり、日本語が90%で英語が70%できれば、日本語をベースにしつつ、英語でもコミュニケートできるが、日本語が80%英語も80%だと、どちらの言語でも「ちゃんと伝わっているか」不安になる。

早期からの英語教育に関して、リスニングやスピーキングの観点から臨界期(註)よりも前から教えるべきであるということに、私は基本的には賛成ではあるのだが(こちらについては追って論考する)、そもそも「義務教育」としては、どのレベルの英語力を子どもたちに付けさせるのか、日本語ともバランスの上で考えておかないと、「使えない人材」を輩出してしまうことになりかねない。

註:臨界期とは、その時期を超えると能力を習得するのに困難が伴うような時期のことを指す。
例えば、第二言語の習得に関しては、およそ10歳頃が臨界期と言われている。

【参考リンク】
Brain & Mind 「脳と心のお話」第9話:脳発達と感受性期のお話(津本忠治先生)
Brain & Mind対談「ヘンシュ貴雄X大隅典子」脳のやわらかさvol.1
Brain & Mind対談「ヘンシュ貴雄X大隅典子」脳のやわらかさvol.2
『心を生みだす遺伝子』(ゲアリー・マーカス著、岩波現代文庫)
by osumi1128 | 2010-09-08 13:43 | 雑感

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