ゼキ先生のブログより:「空白の壁と豊かな想像力」

昨日に引き続き、ロンドン大学のセミール・ゼキ先生のブログを拙訳したものを掲載しておく。

Empty walls and a rich imagination
空白の壁と豊かな想像力

2週間ほど前に、ロンドンのテート・ブリテンに行ってエドワード・マイブリッジの展覧会を見たとき、別の展示室で四方の壁がまったく空白という部屋に出くわした。これは展示の一部なのだろうかといぶかった。そうであってもおかしくない。つまるところ、現代アートの特徴の一つは、観る者を巻き込んで、作家が何を表現しようとしているのか、あるいはその点において表現しえないことは何か、想像力をかきたてさせることにあるのだから。このような努力というのは、現代アートが初めてという訳ではない。サンドロ・ボッティチェリはダンテの「神曲」を描こうとした際に、その一部を未完のままにした。この詩に対応するページが空白のままなのだ−−あたかも、観る者に愛や美についてのダンテの難解な概念を解釈するのに想像力を駆使させんとするように。ダンテ自身は言葉にするのは難しいと告白しているのだが。しかしながら、テート・ブリテンの空白の壁は、展示の一部ではなかった。ただそのまま−−空白の壁であり、その部屋は別の展示のための準備中だったのだ。だが、確かにそれは私の想像力を働かせた。




その後まもなくのこと、先週東京で素敵なホテルに滞在した。何も豪華さはなかったが、その部屋は寝起きをするのに快適だった。この快適さの源は何だったのだろう? そう、それはまったくシンプルな「空白の壁」だった。アート作品(たまに、マネージャーやインテリア・デザイナーの選んだポスターの場合もある)が飾ってある訳でもない。白く塗られたむき出しの壁の替わりに、不思議の想像力がかきたてられ、逍遙し、小さな部屋の中に想像の美術館が創り出される。もし許されるなら、そこここにどんな絵を掛けようか? 部屋の残りの部分は何色が一番合うだろう? たぶん茶色だろうか? 結局のところ、部屋を飾るのには、空白の壁から始まる必要がある。

このむき出しの壁がマネージメントの一部として意図されたものなのかはわからなかった。だが、ここは日本なのだから、そうであってもおかしくない。日本の美しい版画や絵画の多くには、心をわしづかみにされる特徴があるが、それは比較的大きな部分が空白として残されていることであり、そのことによって想像力が刺激される。パウル・クレーの、日本的なる物への熱狂があった初期の絵画には、このような日本の絵画の空白の部分が大きな影響を与えている。

日本人は、もし私が理解しているならば、言わないこと、述べないこと、繊細さと曖昧さの大家であり、それらがみな想像力をかきたてる強力な刺激になっている。

そんなわけで私としては、美しく適度に調度された、空白の壁の部屋を、心からお薦めする次第である。

【関連リンク】
エドワード・マイブリッジの展覧会についての英国紙ガーディアンの記事:Eadward Muybridge's motion towards Tate Britain
ちょうど、京都では3月12日から、東京では5月31日から、パウル・クレー展が開催される。
楽しみ!
パウル・クレー展 おわらないアトリエ
by osumi1128 | 2011-02-01 19:06 | アート

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