HIV研究最前線:『完治 HIVに勝利した二人のベルリン患者の物語』

実は、日本の若者のHIV感染者は増えている。

東京都は、2014年に都内の保健所や医療機関で新たに確認されたエイズ患者とエイズウイルス(HIV)感染者の合計が前年より43人多い512人だったと発表した。20代のHIV感染者は148人で過去最多だった。都は若者の間でエイズ予防の知識が不足しているとして対策に乗り出す。(m3記事より引用)
良い抗ウイルス薬などの治療法の進歩により、現在ではHIVに感染しても、発症を抑えこむことが可能になっている。原著『Cured: How the Berlin Patients Defeated HIV and Foreover Changed Medical Science』が発表されてから、非常に短い時間で訳書が岩波書店から本書『完治 HIVに勝利した二人のベルリン患者の物語』が出版されたことは、実に英断だと思う。
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著者であるナターリア・ホルトは、自身がHIVの研究者だ。実験中に、誤ってHIVウイルスをマウスに注射するための針で指を刺してしまう、という描写から本書は始まる。淡々とした語り口で、1980年代から2013年までに、HIV感染患者をどのように治すかという研究が進んできたのかが説明される。欧米ならではかもしれないが、駄目もとでも臨床試験をしながら治療法が模索されてきた様子がリアルに描かれる。自ら進んで臨床研究に参加しよう、という意識を持った患者がいなければ、治療法の確立へ向けた研究は進まない。

副題となっている「ベルリンの患者」は、HIVに感染しながら、初期に治療を開始したことにより、重篤な症状を発症しない状態が何年も続いているという2人である。それぞれの症例は治療のやり方にも異なる点があるが、帯にあるように「たった二人の症例が 医学の道筋を 大きく変えた」のだ。
「一つの偉大な物語は、必要なものすべてを網羅したデータ一式より人の心を動かすことがある。科学の進展に物語が与える影響力を、私たちはけっして過小評価してはならない」。
後半に出てきた、この文章がとてもいい、と思っていたら、「訳者あとがき」の中で取り上げられていた。訳者にとっても思い入れのある、力のこもった文だったからだろう。全編通じて、非常に読みやすい日本語になっている。

もう一つ印象に残ったのは、エイズは決して治らない病気ではなくなったが、HIV感染者への偏見が無くなった訳ではない、という記述。このあたり、もしかすると日本の事情はさらに違うのかもしれない。

本書には、かなり専門的な医学研究の内容が含まれつつも、中心となっているのは、さまざまな立場の「人間」である。HIV感染をカミング・アウトするかどうか心を痛める患者、その家族やパートナー、自分自身もゲイであり、患者に寄り添って治療する臨床医、HIVを克服するための研究に熱意と競争心を燃やす研究者、医学研究を支えることを生きがいとする大金持ちの慈善家……。それらの人物が交錯する中で、HIVウイルスが追い詰められていく、まるで推理小説のような印象を持った。

物語は2013年の時点で終わるが、研究は今でもさらに続いている。一つの論文が世にでることは、次のいくつもの論文のための始まりである。医学研究の物語は果てしなく続く。

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【お知らせ】
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来週月曜日は、再び「週刊ダイヤモンド」に拙コラムが掲載されます。今回はiPS細胞を用いた再生医療最前線のお話です。

by osumi1128 | 2015-04-09 22:23 | 書評

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