研究者コミュニティーはどう見られているか?

今日から明日の夜まで、慶応大学で開かれている国際シンポジウムに出席。
Cortical Developmentについて、増殖・分化や細胞移動の話題が盛りだくさん。

ところでその折りに、とある先生と「捏造論文」の話題になった。
「(T大のケースは)どうしてあそこまで巨額の研究費が配られたのでしょうね? 数年前から、研究者仲間では<怪しい>という声が上がっていたのに」
「良い雑誌にどんどん素晴らしい論文が出たからでしょうね。それによって、研究費が配分され、さらに論文を出す必要に迫られたということでしょう」
「でも、当時は、研究者サイドでは誰も声を上げなかった訳ですね」
「そうですね。研究評価にまったくの外部機関が関わるという話が出ていますが、そうなったら、たいへんなことですね」
「研究者コミュニティーが信用されていないってことですよね」
「出された論文の数や、ジャーナルのインパクトファクターや引用件数だけで評価するのであれば、一応誰でもできるでしょうが、それでは本当にその研究に価値があったかどうか、分からないでしょうね」
「息の長い論文などは、はじめは評価が低いかもしれませんしね」

やれやれ・・・
バイオ系では、個々の論文の価値とは別に、雑誌の格というものがこの20年くらいの間に確立してしまった。
これは植物でも動物でも統一ルールで判断できるので、本来同じ土俵には載らないはずの異なる分野の論文の評価を、研究を知らない人間でも評価できるようにしてしまったということになる。
工学部の先生方と付き合いがあるが、工学はあまりにも分野が多岐にわたるので、雑誌全体を統一的に評価できる状態にはないらしい。
文系の雑誌がどうなのか聞いてみたことはないが、インパクトファクターは存在しないだろう(そもそも、日本語の論文も多いだろうし)。
だとすると、このシステムは私たちバイオ系の研究者が、アメリカ的競争が激しくなった頃に作り上げ、それによって自分たちの首を絞めているのではなかろうか?

本来、近代科学が成立した頃でも、真理をめぐって科学者同士の論争はあった。
例えば生物学の分野では、神経系全体が網状になっているか(網状説)、多数の細胞が繋がっているか(細胞説)など。
標本を見て、自説に近いスケッチを描いてはいるが、これを捏造というのは酷であろう。
やがて生物学も「証明してナンボ」の時代になり、どのようにすれば証明したことになるかという「お作法」は確立していったが、その「お作法」に則りさえすればよい、という価値観も同時に生みだしたには違いない。

圧倒的多数の生物学者には倫理観や自尊心があることは間違いない(もしそうでなければ、もっと多数の論文がCNSに載っているだろう)。
論文捏造が問題になるのは、そこに税金を元にした研究費がつぎ込まれたり、昇進がかかっていたりするからであるが、「他人を騙そう」と思っているごく少数の研究者を見つけるのには、どのくらいのコストがかかるのだろう?
捏造論文の発見は「キセル」の摘発のようにはいかないと思うのだが、研究者コミュニティー全体が「怪しい集団」として疑いの眼差しを向けられないようにするためには、どうしたらよいだろう?

日本ではいわゆる無賃乗車や「キセル」などの摘発のために、自動改札や車内検札にかなりのコストをかけているが、そのパフォーマンスはどのくらいなのだろうか?
無賃乗車やキセルは、持っている切符などを見せればすぐ分かることだが、捏造論文の発見は、そう簡単にはいかない。
研究者コミュニティー全体が「怪しい集団」として疑いの眼差しを向けられないようにするためには、どうしたらよいだろう?
by osumi1128 | 2006-01-30 22:49

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