ヒトと人のあいだ

昨日のお茶のお稽古は「中置(なかおき)」というお点前でした。
だんだん秋になって涼しくなるので、冷たい印象の水差(みずさし)を客付(きゃくつき)から遠ざけた位置に置き、その分、風炉が点前畳の真ん中にくるために「中置」と呼ばれています。
ちょうど御棚は「五行棚(ごぎょうだな)」というもので、この中置のお点前にしか使わないという季節モノ。
お茶の世界ならではの季節の移り変わりを感じるひとときでした。

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やはりご恵贈頂いた本なのですが、昨日、帰仙する新幹線で『ヒトと人のあいだ』(野家啓一編、シリーズヒトの科学6、岩波書店)を読み始めました。
帯には「人間の最大の特徴は、物語る能力にある ホモ・ナランス(homo narrans)という新しい人間観を提出する」とあります。

野家先生は科学史・科学哲学がご専門で東北大学の副学長の方なのですが、委員会等を通じて存じ上げています。
脳科学グローバルCOEのシンポジウムのご案内をお送りしたためか、「…小生は神経倫理には不案内ですが、…脳生理学的決定論に対して少々異を唱えましたので、近著と併せて同封させて頂きました。…」というお手紙とともに御本を頂いた次第です。

「脳生理学的決定論」について普段意識したことはなかったのですが、どちらかといえば文系的、哲学的立場の方には大いに問題となっているようです。
以下、野家先生が書かれた「第1章 総論」より引用します。
もし現代の脳科学が目指しているように、心の動きが脳過程によって説明され、心的状態が脳状態に還元されるのであれば、嫉妬の果てに「殺意」を抱くことも、銃の引き金を引くことも脳状態の因果的帰結であり、その結果としての殺人に対しても責任は問えないことになるであろう。脳状態を自ら操作することはできない相談であり、そもそもミクロな脳過程は「応答可能性」を持ちえないからである。(1 総論より)


なるほど、確かに「心は脳の表出」などと脳科学者は素朴に信じていますが、こういう見方もある訳ですね。

野家先生は「原因ー結果のカテゴリーを本来的に適用できるのは、脳状態ではなく、心的状態」だとみなし、「原因と結果を結びつける背景としての<物語>が必要とされる」と主張されます。
人間が行為の「自由」をもち、行為の結果について「責任」を負う存在であるとすれば、その存在基盤は行為の理由について「物語る」能力にこそ存在する。……動物と機会に挟撃されて宙吊りになっている人間のアイデンティティの在処を見出すとすれば、それは「物語るヒト」すなわち「ホモ・ナランス(homo narrans)」であるところにこそ求められねばならない。(1 総論より)


まだ読み始めたところですが、とても興味深かったのでご紹介いたしました。
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そういえば、今日は「みちのくYOSAKOIまつり」が定禅寺通りで行われていました。
久しぶりに家からラボまで完歩しました\(^O^)/
by osumi1128 | 2007-10-07 20:38 | 書評

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