大隅典子の仙台通信:書評
2020-03-22T00:13:44+09:00
osumi1128
大隅典子の個人ブログです。所属する組織の意見を代表するものではありません。
Excite Blog
『江戸とアバター 私たちの内なるダイバーシティ』
http://nosumi.exblog.jp/28012731/
2020-03-22T00:13:00+09:00
2020-03-22T00:13:44+09:00
2020-03-22T00:13:44+09:00
osumi1128
書評
実は、田中先生は池上先生が以前に書かれた『美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起原』(NTT出版、2005年)という本の書評を書かれており、「たいそう気に入り気になった本」であったらしい。法政大学が、池上先生が所属されている米国ニューヨークの「ニュースクール大学」との連携協定を結ぶため、田中総長一行がニュースクール大学を訪問した際、お二人は初めて知己となり、江戸とニューヨークがダイバーシティの観点から繋がった。
本書は朝日新聞社主催、法政大学共催により開催された朝日教育会議「江戸から未来へ アバター for ダイバーシティ」をもとにしている。このイベントでは、田中先生が「江戸文化とアバター」について、続いて池上先生が「アバターで見る知の多様性ーダイバース・インテリジェンスの時代」と題して講演され、その後、ディスクレシア(読字障害)をカミングアウトしている、落語家の柳家花緑氏を交えたパネルディスカッションを行った。本書は順序を逆にして構成されている。
田中先生の書かれた「終章 アバター 私の内なる多面性」に、本書の目指すとことのエッセンスとして、「人がいくつもの名を使い分ける多名の江戸時代から、近代の「個人」に統合する時代を経て、今は個人主義から分身主義へゆるやかに移行する時代になったのではないか、…」というくだりがある。
「個人individual」の意味は「分けることができない」人格を表しているが、江戸時代の人々は「自分」を複数持つことにより、文化的にも豊な生活を送っていた、という点において、江戸文学研究者である田中先生と池上先生の意見は一致し、池上先生が持ち込んだ「アバター」という分身の捉え方によって、江戸と現代が見事に繋がったのだ。
中学校の歴史で「士農工商」という言葉を習い、江戸時代は身分社会だと思っていたらさにあらず、識字率は当時の世界の状況からみて非常に高く、豊な文化があったことは理解していたつもりだったが、見落としていたのは、例えば、渡辺崋山は私は画家としてタグを付けていたのだが、実は蘭学にも明るい三河国田原藩の藩士で、俳諧もひねるというマルチな才能を持つ方であったこと。あるいは、蜀山人という名前でタグを付けた文化人は、大田直次郎という下級武士であり、四方赤良として狂歌を詠み、寝惚先生という狂詩家であり、さらに杏花園、山手馬鹿人、風鈴山人などの名前を使い分けていたという。
「若い子たちはツイッターのアカウント名をいろいろ使い分けているみたいよ」、なんてことに驚くには値しない前例が山ほど、江戸時代に存在していたのだ。
本書の冒頭に戻ると、池上先生の『自閉症という知性』(NHK出版新書)の中にも登場する柳家花緑氏によれば、落語家は一人で何役も演じるのだから、まさにアバターを使い分けているようなもの。花緑氏の言葉では「マリオネット」を操っているような感覚らしい。一つの役になりきってしまうと、他の役との切り替えがうまくいかないのだという。それにしても、読字障害があっても音声で記憶できるという特性は素晴らしい。
ちなみに、終章で田中先生は「…その非定形のなかには、無目的なおしゃべり、すなわちスモールトークやガールズトークが苦手であることとか、人と話すこと自体が大きなストレスであるといった、私自身に心当たりがある傾向も記されている。共有する話題のない人と向き合って目的の無い会話を続ける風景は、想像するだけで苦痛に満ちている。……」と告白されていて、このことは私自身、まったく同じ傾向があるので、まだ面識は無いにも関わらず、とても親近感を持ってしまった。
本書で、池上先生がニューロダイバーシティのイメージとして「スペクトラム」というよりも、「全球的なもの」と説明されている点は新しい見方で興味深いと思った。スペクトラムはどうしても一次元というか、せいぜいが二次元なのだが、そうではなくて、地球儀の上に、それぞれの人が自分の地形として高低差や広がりを持っている、というようなイメージなのだ。さらに言えば、そのような特性はさらに、時間的な推移なども含まれるべきで、三次元よりさらに高い時限として捉えるべきなのだろう。
田中先生の江戸文化についての記述については、もっと他の著書を読ませて頂いてから考察したい要素が随所にあった。例えば、江戸時代にはそれなりに婿養子が多かったことなども、生物学的な観点から考えると興味深い点がありそうだ。
ともあれ、こんな贅沢な本が新書で読めるということは有り難い。まだKindle版は出ていないようだが、出版されたら電子媒体にもして、いつでも参照したい本である。
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『ヒトの発達の謎を解く』のはとても面白い
http://nosumi.exblog.jp/27820959/
2019-10-27T10:14:00+09:00
2019-10-27T19:31:44+09:00
2019-10-27T10:14:09+09:00
osumi1128
書評
明和先生は京都大学教育学研究科の教授だが、同大学の霊長類研究所に所属され、松沢哲郎所長(当時)のもとでチンパンジーの研究にも携わられた。また、新学術領域研究「構成論的発達科学-胎児からの発達原理の解明に基づく発達障害のシステム的理解-」(代表:國吉康夫@東京大学大学院情報理工学系研究科 )では、ロボット研究者等とも交流されている。本書のあとがきには影響を受けた方々として、さらに長谷川寿一先生、長谷川眞理子先生、乾敏郎先生、岡ノ谷一夫先生等のお名前が挙げられ、そのような多様なバックグラウンドをもとに、「ヒトの発達」をさまざまな視点で捉えてみたのが本書である。
ちなみに、ちくま新書といえば、どちらかというと文系の新書という印象があるかもしれないが、近年はいわゆる理系寄りのものも多く扱われている。拙著『脳の誕生ー発生・発達・進化の謎を解く』(本書の第五章の参考書にも挙げて頂いている)も同じ「謎を解く」シリーズであるが、編集担当は違う方。『失われたアートの謎を解く』(青い日記帳監修)などもあるので、「謎を解く」はちくま新書さんのブランドと考えるのが良い。
さて、ネタバレしないように解説するのは難しいが、本書の第一章が「生物としてヒトを理解する」とあるように、明和先生のスタンスはティンバーゲンの「4つの問い」をベースに人間の心がどのように獲得されるのか、発生発達の視点や、進化の視点が取り込まれている。
また、多くの脳科学の書籍は、いわば頭でっかちというか、脳にしか言及が無いことが多いのだが、本書は「身体性」を重視している点もユニークである。とくに、小さな子どもが育つ際の「触覚」や「アタッチメント」がいかに重要かという観点は、ネグレクトの問題等も含め、改めて振り返る必要があるだろう。ちなみに、身体接触が子どもの認知発達を促すという事実は、もしかすると老年期においても、認知症予防等に大事なのではないかと、ふと思った。
おそらく、多くの読者にとってもっとも気になるのは、発達障害に関する記載だろう。未熟児の発達にはリスクが伴うことについても、泣き方の研究成果などに言及されていた。自分の気持や心のありようを言葉で表現できない赤ちゃんの研究は、霊長類研究と通ずるところがある。感受性期の重要性については、これまでも種々、説明されてきたことであるが、本書では「思春期開始の早まりと精神疾患のリスク」について取り上げられている。早期からの介入による支援に繋がることを願う。
第六章では、情報化やロボットとの共生がさら進んだ近未来社会において、ヒトの育ちはどのように変化しうるのかについて語られる。私もまったく首肯するのだが、現時点でのAIは対人場面における「誤差検出ー予測の修正ー更新」という情報処理が苦手で、まだヒトとの間に大きな隔たりがある。とはいえ、小さな子どもが難なくタブレットを利用する現在、対人関係がどのように変わるのかは興味深い。
「イヤイヤ期の脳に起こっていること」や「人見知りの子どもの葛藤」などは、子育て中の方にとっての気づきになるだろう。
「ヒトの発達の謎を解く」のはとても面白い。豊富な図表等も含まれる本書を、ぜひ多くの方々が読んで頂けたらと思う。
なお、関連して、11月末に明和先生が主催される日本発達神経科学学会第8回学術集会が開催予定。ポスター携えて参加しようかな。
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『アスペルガー医師とナチス 〜発達障害の一つの起源〜』を読んで
http://nosumi.exblog.jp/27795686/
2019-10-06T18:09:00+09:00
2019-10-06T20:48:46+09:00
2019-10-06T18:09:29+09:00
osumi1128
書評
ちょうど先月末、ニューヨークの国連本部で環境問題についてスピーチした16歳の少女、グレタ・トゥーンベリ氏は「アスペルガー(症候群)」であることを自認し、むしろそのことを「価値ある才能」として誇りに思っているという記事があった。
ハフポスト:「アスペルガーは私の誇り」 グレタ・トゥーンベリさんが投げかける「障がい」の意味(2019.9.25)
「アスペルガー症候群」とは、1994年制定の米国の精神疾患診断基準DSM-IVでは「コミュニケーションや興味について特異性が認められるものの言語発達は良好な、先天的なヒトの発達における障害」として診断名に挙げられていた。この時期より徐々に、日本でも「アスペ」と自認する方々の書籍等が増え、合わせて「発達障害」という言葉も徐々に浸透しつつある。ただし、精神疾患の診断基準は数年おきに変わっており、現在、最新のDSM-5では「アスペルガー症候群」は自閉スペクトラム症の中に含まれることになった。
さて、種々の病気の名前には、発見した方の名前が付くことがよくあり、アスペルガー症候群は、オーストリア生まれの医師、ハンス・アスペルガーが1944年に報告した4人の少年の症例報告に端を発することはよく知られている。「共感能力の欠如、友人関係を築き上げる能力の欠如、一方的な会話、特定の興味における極めて強い没頭、およびぎこちない動作を含む行動および能力のパターン」(Wikipediaの記載より)がその特徴だ。
ちょうど、その前年の1943年に米国のレオ・カナーも、「社会性の障害、コミュニケーションの障害、こだわりの強さ」などを示す子どもについて報告したが、カナーの取り上げた子どもでは精神遅滞を伴うのに対し、アスペルガーの報告した子どもは「高機能」であるとみなされることが多い。
本ブログでは細かい診断基準等には立ち入らないが、医師アスペルガーがウィーンで活躍した時期というのが、ちょうどナチス・ドイツがオーストリアを統治下に治め、いわゆるユダヤ人の迫害を行っていた頃であるということが、1944年の症例報告の背景にあるということがどういう意味を持つのか、本書を読むまで誤解していたのはショックだった。
例えば一般に手に入りやすい書籍として米国のスティーブ・シルバーマンが書いた"Neurotribes"(日本では『自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実』として講談社ブルーバックスより出版)では、ハンス・アスペルガーは第3章に登場するが、「不器用だが、知能は早熟でかつ、規則性や法則性やスケジュールに魅了されるという」子どもたちに、慈愛を持って接する優しい小児科医として扱われている。
だが本書では、当時、「第三帝国」の全体主義に合わない子どもたちを「選別」するために、「自閉的精神病質」という診断基準が生み出され、矯正可能かどうかの判断により、児童福祉施設に送られた子どもたちが殺されることになったことが、膨大な資料を出典として書かれているのだ。
本書を読んで初めて知った言葉として「ゲミュート」というものがある。もともとはドイツ語で「情意」というような広い意味であったものが、ナチス時代にやがて「彼はゲミュートが足りない(第三帝国に対する忠誠心に欠ける)」という使い方に変わり、自閉的精神病質は「ゲミュートが無い・少ない」状態として表されるようになった。つまり「ゲミュート」は今日、私たちが「社会性」と理解するものとは大きく異なるのだが、その判断が子どもの運命を決めていた。
本書は現場で困っている方の「役に立つ」ものでは無いが、アスペルガー医師に関するイメージを中立的なものにすることは必要であろう。
参考
HONZ:『アスペルガー医師とナチス 発達障害の一つの起源』現代の精神医学とナチス 光と闇の意外なつながり(2019.8.24)
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『ケーキの切れない非行少年たち』を読んで考える医療と教育の間
http://nosumi.exblog.jp/27734706/
2019-08-19T00:06:00+09:00
2019-08-19T00:06:11+09:00
2019-08-19T00:06:11+09:00
osumi1128
書評
現在、知的障害者の定義は「おおよそIQが70未満」として、人口の約2%が該当すると見積もられているとのこと。ところが、1950年代の定義では「IQ85未満」となっていたので(そんなに大幅に変更して良いことなのかびっくりしましたが)、もしこれらの年代で割合に変化が無いとすれば、IQ70〜84の「かつての軽度知的障害者は14%」存在することになります。
また、仮に児童向けウェクスラー式知能検査(WISC)で測られるIQの値が98であったとしても、その「下位指標」の値の中で劣った部分があって、例えば「ワーキングメモリ」が悪いとすると、実際、就学して種々の学習を行う上では大きな困難が生じることになるでしょう。さらに、このような「知能検査」では、「社会で必要とされる柔軟性、対人コミュニケーション能力、臨機応変な対応」などは測ることができません。先々のことを想像する能力も大切です。「知的には問題が無い」として片付けられてしまうと、支援の手は届かないでしょう。
著者によれば、これらの境界領域方の多くは、小学校2年生くらいの時点で種々の問題が明確になるものの、「IQ70クリア」であれば特段の支援を受けることができずに学年を重ね、中学2年生くらいの頃からドロップアウトしてしまうケースが多いとのこと。
タイトルとなっている「ケーキの切れない」少年は、丸いケーキを「三等分して下さい」という課題を目にして、3つの扇形に分けることができないという事例。さらに、若干複雑な図形を「写して下さい」という課題に対して、普通の人が見たらまったく同じ図形には見えないような絵を書くとのこと。この部分、実際に挿絵を見ると衝撃を受けます。
Society 5.0という時代に必要なスキルは、農耕時代や第一次産業革命後とは異なります。単純な作業を毎日、繰り返せば良いということではないのです。一見、単純そうに見えるコンビニのレジ係であっても、客に合わせた臨機応変な対応が必要となる場面はあるでしょうし、せっかく仕事を覚えても、種々のシステムが短い感覚で変更となる可能性は多いのではと想像します。
著者は医療少年院勤務の経験をもとに、いわゆる「認知療法」でこだわりを無くしたり、気持ちをコントロールすることは、上記のような境界領域の少年にはとても困難であろうと述べています。認知療法は、介入者の話を理解できるだけの知的レベルが無ければ成り立たないのです。著者は、そもそもの支援となるような「コグトレ」(認知トレーニング)を提唱しています。
境界領域の子どもたちを就学時にどのように救うか、個人個人に合った教育ができることが理想なのですが、現実にはそのような子どもたちは、医師、心理士、教師のいずれの支援の手の隙間からも滑り落ちてしまっているのかもしれません。
……本書を読みながら、もう一つ、別のことに思い至りました。それは、高等教育の現場でも、入学する学生それぞれのレベルに合った教育ができているかという問題です。「大学院重点化」を経て、それまでの時代には大学院に進学しなかった層の学生が大学院に入学するようになったものの、その教育は「教員の背中を見て育つ」レベルから十分に変革できていないというのが実態としてあると思います。
研究不正の増加の背景には、成果主義、商業主義、競争激化などの「機会要因」もありますが、理解できないことに対して、「手っ取り早い解決策で済ます」という対応は、本書で取り上げられたような少年の行動パターンとの類似性を感じます。実際、研究不正に関するセミナーの折、言語学が専門の方から、「盗用の背景には、文章を書く能力に欠けていることもあると思います」という主張を伺ったことがありました。
まだ何度か読み直して反芻する必要がありますが、この書籍が多くの方に届くと良いと思って拙ブログに書かせて頂きます。
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『小説 ブラック・ジャック』から考える近未来の医療
http://nosumi.exblog.jp/27727082/
2019-08-13T07:47:00+09:00
2019-08-13T07:47:37+09:00
2019-08-13T07:47:37+09:00
osumi1128
書評
本書は、週刊少年チャンピオンに連載されていた手塚治虫の『ブラック・ジャック(B・J)』をノベライズしたもの。ノベライズといっても、原作の漫画そのものを小説にしたのではなく、1970年代後半から30年後のB・Jなら、どんなスゴ技を見せてくれるか想像力・創造力を駆使し、新たに5つのストーリーとして書き下ろしている。とはいえ、B・Jやピノコの独特の台詞はそのまま、登場人物は過去のストーリーにヒントを得たもの。今こそ、すべての手塚治虫ファン、B・Jファンに告ぐ! 読むべし。
おそらく、手塚治虫ファンの視点からの書評はたくさん出てくると思うので、ここでは、拙ブログ主の専門を活かし、たぶんあまり出てこないと思われるポイントを残しておこう。
取り上げたいのは第2話「命の贈りもの」。『W3(ワンダースリー)』と『ガラスの城の記録』に出てくる登場人物を下敷きとしている。「進行性骨化性線維異形成症」という希少難病の少年が、その後の医療の進歩に賭けて、20年前に「人工冬眠状態」となっていたところ、iPS細胞の登場により、少年の兄が研究者としてその遺伝子治療法を見つけ、弟を冬眠から起こしてもらう手術をB・Jに依頼する、という内容だ。
本書での人工冬眠法では、血液を入れ替えるという方法を取っているが、この根拠となっているのは、米国ピッツバーグ大学の研究と思われる。20年ほどの研究を経てついに2004年、イヌの血液を低温の生理的食塩水に置き換え、一過性に心拍停止状態にし、外科手術を行うことに成功した。血液が無くなると種々の機能が損なわれるが、低温にしておくことにより、細胞のダメージを極力防ぐというのがポイントだ。これに対し、米国フレッド・ハッチンソン癌研究所のマーク・ロス博士は、線虫の仮死状態にヒントを得て、2005年に硫化水素を用いた方法で数時間程度の人工冬眠状態をマウスで成功させている。この方法であれば、血液を抜き取る必要はない。
だが、そもそも、人工冬眠の研究には日本人研究者が関わってきたことを伝えておきたい。元三菱化学生命科学研究所の近藤宣昭博士は、シマリスを用いて冬眠の基礎研究を行い、1992年に冬眠の鍵となる特別なタンパク質を見出した。詳しくは、近藤先生が書かれた『冬眠の謎を解く』(岩波新書)をご参照あれ。同研究所が2010年に閉鎖された後、近藤博士は神奈川科学技術アカデミー(KAIST)のプロジェクトとして冬眠研究を行っていたが、この組織も再編され、現在は近藤博士の弟子筋と思われる高松信彦教授(北里大学)が続けているようだ。
もし画期的な人工冬眠法ができたら、現在、交通事故等で負傷した方を離れた病院まで搬送するのに役立つ。さらに長期間可能となれば、本書のように治療法の無い難病の患者を将来、救うことができるかもしれない。あるいは、宇宙飛行士が遥かな惑星まで到達するのに人工冬眠状態となってロケットで運ばれていくということが、SFの世界ではなく、現実のものとなるのかもしれない。折しも、内閣府が中心となって進めようとしている「ムーンショット型研究」の例として挙がっている25のミッションのうちの一つが「人工冬眠」となっている。
本書にはこの他にも、AIを用いたロボット手術や、遠隔手術、臓器移植、安楽死等、未来の医療を考えるヒントがたくさん散りばめられている。なので、本書を来年度の医学部生への「お進め本24冊」の中に含めようと思ったところ。もちろん、ヒューマンドラマとして涙腺が緩むところもエンターテイメント。
【参考リンク】
『冬眠の謎を解く』(近藤宣昭著 岩波新書)
週刊ダイヤモンド「大人のための最先端理科」拙コラム:第65回不老不死も夢ではない!? 冬眠はコントロールできるか(2016.4.23)
内閣府:ムーンショット型研究開発制度(2019.7.31)(PDF)
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『なぜ女性管理職は少ないのか』を読んで考える令和のリーダー像
http://nosumi.exblog.jp/27705054/
2019-07-27T12:09:00+09:00
2019-07-27T15:50:19+09:00
2019-07-27T12:09:34+09:00
osumi1128
書評
某公共放送番組で人気の「チコちゃん」風に一言で言うのなら、「なぜ(日本では極端に)女性管理職は少ないのか?」の答えは、「女性が管理職を望まないから」ではなく(←ここで、チコちゃんに「ボーッとと生きてんじゃねーよ!」と怒ってもらう)、「リーダーの役割を誤解しているから!」(ドドン♫)となるでしょう。
現代に求められる「リーダー像」は、「変革型(transformational leadership)」と言われます。「理念的・理想的な態度や行動、インスピレーションの喚起、知的刺激、メンバー一人ひとりの欲求を考えてその育成と欲求への配慮をおこなう。……外界に向ける支店の注視をより促して思考や理念の新しい考え方を与え、明確な将来の目標とビジョンを提示して自らもリスクに向かう。このようなリーダーは、組織・集団の目的を明確化し、それを達成する具体的プランを提示して率先する。」(本書第3章より)
これに対する「交換型(transactional leadership)」では、「成果にフィードバックし、失敗したときの態度を受け身で見守り、個人利益の最大化をおこなう。リーダーと部下の間の相互交換を重視し、部下の責任を明確にし、集団にとって正当なことを促し、それに反した場合の統制・管理をすることでフォロワーに対して報酬や昇進を与えることで満足させる」と言います。(同上)
さらに「放任型(laissez-faire)」も合わせて、リーダーシップを積極的に発揮しない型として、男女の違いに関する過去の論文のメタ解析を行うと、女性マネージャーの方が実は変革型の特徴を優位に示し、男性マネージャーでは逸脱行動の管理や放任的な指標が優位であったといいます。
出典:Eagly & Johannesen-Schmidt: Transformational, translational, and laissez-faire leadership styles: a meta-analyseis comparing women and men. Psychological Bulletin, 2003(PDF)
なんとなく見渡すと、男性リーダーに「交換型」や「放任型」が多いような気が確かにしますね・・・。もとい。日本では管理職に男性が圧倒的に多く、その多くが「交換型」や「放任型」であるような印象を持ちます。
本書の中では「リーダー」という言葉も、日本では女性が手を挙げにくいイメージがあるという点についても触れられていました。むしろ「マネージャー」であれば、その心理的バリアが下がるのかもしれません。
もちろん、日本で女性管理職が少ないのは、育児や家事の負担が圧倒的に女性側に偏っていることが、そもそもの背景にありますが、「女性は管理職に向いていない」という方がおられたら、令和の時代に求められるリーダーは「変革型」であり、むしろ女性の方がその特質に当てはまるということを伝えたいと思います。
停滞する日本の現状を変えるには、まず「女性管理職を3割に!」と言いたいですね。
なぜ3割かというと、例えば簡単な事例として、何かの組織の「理事」のポジションが10あったとして、女性がその一人だと、その女性が「全女性」を代表するような意見を求められてしまうことがよくあるのです。それは違う。2名だと異なる意見がありえ、3名だと違いと共通性が見えると思います。3割くらいの人数がいれば、マイノリティとしても排除されないパワーとなりますね。
本書は共同参画関係の組織には必ず揃えておいた方が良い良書であり、若い方を育てる立場にある方には、男女問わず、ぜひ読んで頂きたいと思います。
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瀬名さんの『魔法を召し上がれ』を読んで考えるモレキュラー・キュイジーヌのマジック
http://nosumi.exblog.jp/27634663/
2019-06-07T05:25:00+09:00
2019-06-07T08:08:44+09:00
2019-06-07T05:25:07+09:00
osumi1128
書評
主人公はマジシャンのヒカル、若干二十歳。そして相棒は少年型ロボットのミチル。脇を固める人物として心優しい作家や、ロボット研究者も登場するが、ここまでは、これまでの瀬名ワールドをご存知の方ならお馴染みだろう。ヒカルのマジックには、前作『この青い空で君をつつもう』(双葉社)の中心モチーフとなった折り紙も登場するが、本書で新しいのは、「モレキュラー・キュイジーヌ」の世界が加わったこと。
モレキュラー・キュイジーヌとは、分子調理法、あるいは分子ガストロノミーと呼ばれたりもするが、物理的・化学的に工夫を加えた調理法やそのようにして作られた前衛的料理を指す。そのはしりは、スペインのエル・ブジというレストランと言ってよいと思うが(ちなみに、仙台にも弟子筋のお店がある)、液体窒素でソースを冷やして固めたり、ヘリウムガスを入れた風船を用いたり、びっくりするような仕掛けがある。スプーマという細かい泡のソースやドレッシングは、分子調理法を看板に掲げていない普通のレストランでも出てくる。化学工学的に開発された簡単な装置のおかげだ。
よく考えれば、化学の歴史は紀元前の錬金術に遡り、17世紀以降も化学実験は奇妙な現象を人々の前に見せてきた訳だから、反応原理を知らない者にとっては、一種のマジックのように思えたとしても不思議ではない。本書の物語の中では、そんなモレキュラー・キュイジーヌという魔法を使う人物がもうひとり登場する。
人はなぜ魔法を求めるのだろう? そこにあるものが消えたり、現れたり、変化したり、そのときの驚き、心の営みは本当に不思議だ。科学者はまだ、サプライズのときに脳内で神経伝達物質のドパミンが放出されるくらいしか理解できていない。
枕になりそうな分厚い本だが、一気に読める。爽やかな読後感なので、これからの季節の週末にぜひお勧めしたい。
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『文系と理系はなぜ分かれたのか』を知る
http://nosumi.exblog.jp/27632255/
2019-06-05T12:22:00+09:00
2019-06-05T12:22:22+09:00
2019-06-05T12:22:22+09:00
osumi1128
書評
そもそも、この「星海社新書」という新書を手にしたのが初めて。初代編集長、柿内芳文氏の「次世代による次世代のための武器としての教養 星海社新書」という煽る文章の最後には、下記のようにある。
星海社新書の目的は、戦うことを選んだ次世代の仲間たちに「武器としての教養」をくばることです。知的好奇心を満たすだけでなく、自らの力で切り開いていくための”武器”としても使える知のかたちを、シリーズとしてまとめていきたいと思います。
確かに、「知は力」であり、「知識は人を自由にする」ものだと同意する。書籍の売上げが伸びない現代において、20代、30代をターゲットに新たに出版社を立ち上げたことに敬意を評したい。
本書はすでに黄色い帯にあるように、「新聞等各紙誌で絶賛、東大生協駒場書籍部、2018年8月・9月新書売上げランキング第1位、2019新書大賞第2位」というベストセラーであり、いまさら書評というのも気が引けるので、自分にとっての備忘録として気づいたことを残しておきたい。
本書の構成として各章のタイトルを記す。
第1章 文系と理系はいつどのように分かれたか? ー欧米諸国の場合
第2章 日本の近代化と文系・理系
第3章 産業界と文系・理系
第4章 ジェンダーと文系・理系
第5章 研究の「学際化」と文系・理系
第1章、第2章は、いわば歴史の振り返り部分であり、むしろ「文系」が後からできた学問分野であることを再認識した。日本の歴史では、江戸の終わりから明治期に、近代化の流れの中で「実学」や「窮理」が重んじられつつも、文官が技官を支配する仕組みが出来上がっていったというのが興味深い。
ちなみに、筆者の所属する東北大学は1907年に日本で3番めの帝国大学として誕生したが、開学の理念として、「研究第一」「門戸開放」とともに「実学尊重」という言葉が残されている。この「実学」は、当時の感覚では「役に立つ」という意味よりも、「形而上的ではない」というようなニュアンスであったことを、本書を読みながら再確認した。実際、東北大学はまず理学校(理学部に相当)を第一として設立され、1922年にアインシュタインが、1937年にボーアが来学したことからも、理学の研究が充実していたことが窺える。
「星海社新書」としての訴求効果に繋がるのは、第3章「産業界と文系・理系」のあたりだろうか。この章はアカデミック・キャピタリズムがひたひたと進行する現代社会において、「儲かる理工系」という思想が生まれてきたことなどの振り返りが興味深かった。博士人材の活用がまだまだ上手く行っていない日本は「低学歴社会」であると思う。
さて、私としてはやはり「ジェンダーと文系・理系」の章を興味を持って読んだ。そもそも本書を知るきっかけは、筆者の隠岐氏がツイッターで、この章を書く上で、拙翻訳書『なぜ理系に進む女性は少ないのか?』(西村書店)を参照したと発言していたからだ。実際、本章末の参考文献には、この本のどこに出典があるのか、逐一、引用して頂いている。多くの新書が参考文献の部分を割愛する傾向がある中で、本書は参考文献の細やかさという意味で、新書の中で群を抜いているといえる。
第5章の「研究の<学際化>と文系・理系」とも関わるが、イノベーションを進める上で、人的多様性が重要であることは言うまでもない。これは何も最近になって言われるようになったことではなく、塩野七生先生の『ローマ人の物語』や『ギリシア人の物語』にも取り上げられていることだ。ローマ帝国の繁栄は、征服した国や土地の人々を大いに活用したからであり、ポリス国家の中では純血主義のスパルタが、だんだんジリ貧になった。
近代から現代へと時代が移る間に、教育の機会が増え、高等教育の恩恵に被る人の数は増加した。科学技術の発展だけでは解決できない問題も山積している。研究の「学際化」は、単なるキャッチコピーではない。筆者が代表を務める新学術領域「多様な<個性>を創発する脳システムの統合的理解」では、人文社会系、生物系、理工系の研究者が集まって、「個性」の科学的な理解を進めようとしている。
学問自体が「生き物」のようなものだ。それぞれの学問領域が細分化され、深化していきつつ、自律的に融合したり、分裂したりすることが繰り返される。冒頭に「文理の壁を無くす」と書いたものの、実際には学問として文系・理系が統一されるということには、おそらくならないと筆者も思う。ただ、日本の大学入試制度や、その後の大学教育において、大きく「文系・理系」を分けていることは、時代のニーズに合っていないだろう。
東北大学では、2020年度より文系・理系問わず新入学生全員にAI・数理教育を行う準備を今年度から部分的に試行している。今後、工学分野にもっとアートが取り入れられるような方向性もあって良いと思う。
本書を20代、30代だけのものにしてはもったいない。産学官民、どんな分野の方でも一読しておくと、文理融合研究や、市民参加型の研究などを推進する上で役に立つだろう。唯一の不満は……電子化されていないことです。出版社さん、なんとかなりませんか???
【参考サイト】
ジセダイエディターズダイアリー:隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』が〈新書大賞2019〉第2位に入賞!(2019.2.8)
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中根千枝先生の言う日本の「タテ社会」は今後どうなっていくのか?
http://nosumi.exblog.jp/27582973/
2019-05-03T17:57:00+09:00
2019-05-04T09:39:48+09:00
2019-05-03T17:57:44+09:00
osumi1128
書評
1926年(大正15年)に生まれ、1970年に女性として初めて東京大学の教授になられたという、今年92歳となられる社会人類科学者が、それぞれ1967年と1978年に著された書籍なのだが、これらは海外からも「日本論の古典」とみなされているという。
「タテ社会」は、下記の図(『タテ社会の人間関係』の第1図)の「X」として表されるユニットを基本とし、さらに図3のように階層構造を作っていく。
ここで重要な点は、同じ階層の「ヨコ」のつながりよりも、「タテ」の方が強いという点である(図1の「Y」のような「底辺」に相当する関係性が無い)。
日本以外、同じアジアでも中国、東南アジア、あるいは西欧などでは下の図2の「Y」のような「ネットワーク構造」を取る組織が多い。このような組織における「リーダー」は、圧倒的な力の差が無くてもよく、複数の小集団から成る大集団であったとしても、そのタイミングで相対的に力の強い小集団の中で、相対的にリーダー的な立場にある者(例えば年長者であったり、その組織に長く所属する人)がリーダーになる傾向があるという。 上記の第2図の「Y」には例えば「a-d」「a-e」のような関係性は明示されていないが、実際にはネットワーク組織ではそのような関係性がある。そのため、組織が機能するためには明確な「ルール」が必要となる(図4)。
日本の人間関係の構造は、均質な性質を持った(とみなされる)構成員から成る「小さなユニット」の中での、比較的単純な関係性によって成り立っていることにより、いわば「忖度」することにより(中根先生の書籍の中にはこの用語は出てこないが、ぴったりの言葉だろう)、明確なルール(例えば、究極には「憲法」であったり「法律」のような原理原則)が無くても、社会が維持されるという。
数年後に書かれた『タテ社会の力学』の方では、このような日本型「タテ社会」の「動的な調整力」について考察されており、日本型社会が「軟体動物」のようなものであると捉えられていた。ヒトデの足のような階層性のある組織が複数あるとして(ヒトデは生物学的分類としては軟体動物ではないのだが……)、全体としてどの方向に向かうのかは、それぞれの足の動きの様子が口の周囲にある中枢組織である「神経環」のところに届いて、調整されるようなものだという。
『タテ社会の力学』が最初に書かれた頃は、日本がいかにして戦後復興と経済成長を遂げたのか、という観点から日本型組織の特色に着目された訳であるが、中根先生が2009年の文庫版の「あとがき」で触れておられるように、「30年経っても理論として改訂したい部分が無かった」というくらい、日本の社会構造には変化が見られなかったという点は、さらにそこから10年の月日が流れた今日、嚙みしめるに値する。
例えば、日本における「合意形成」では、「小集団」の中での曖昧な合意や、集団同士の馴染み合いに基づいて為されることや、必ずしも「責任を明確にしえないメカニズム」などが、すべてこのような「タテ社会」という組織構造によって決まってくるという理解は、改めて目から鱗が落ちる気持ちがした。
また、日本的な「単身赴任制度」が成り立つのは、職場の小さな「タテ社会」ユニットが、「家族」の機能を代替していることに依るという考察も慧眼と思う。明確に書かれていなかったが、大きな会社や官庁等で、キャリア組が数年ごとに部署を移り変わるのも、基盤となる社会構造が「タテユニット」であるからなのだろう。また、こうしたキャリア組自体は、比較的大きなネットワーク構造を有し(医師会なども同様の組織)、その維持のために必要な情報交換を密にするということも納得であった。
ちなみに『タテ社会の力学』の最後の「付記2」では、1977年に動物行動学の日高敏隆先生と行った対談が収録されており、その中で「タテ社会」のナンバー・ワンが天皇であることが触れられている。「タテ社会」は個人の均質性が求められるが、日本の場合、「奈良朝ができる前に相当な文化の単一性ができてしまっている(本書より)」という。
この2冊の書籍が書かれた1960年代後半から70年代という時期は、おそらく日本でもっとも「中流意識」が強かった時代であろう。取り上げられていたエピソードが面白い。
港区の麻布笄(こうがい)町のお屋敷街で「あなたの家は、社会階層のどのランクだと考えますか?」という質問に対して、返答はほとんど「中流の中。上流階級は元華族のような人たち」。麻布の商店街で同じ質問をすると「自分たちは中の中。上流階級は笄町のお屋敷に住んでいるような人たち」という答え。これが、下町の江東区で訊くと「私たちは中の中。上流は港区に住んでいる人」となる。
それぞれが所属する階層の中や近接する階層等の、身近な「上下関係」に意識が向いているという反映であろう。(なので、中根先生は「90%が中流意識を持っている」というアンケート結果の意味はよく考えるべきとのご意見)。
さて、文庫版の『タテ社会の力学』が出版されてから後の10年の間、私は実際には日本の社会構造が変化しつつあるのではないかと考える。それは、戦前に生まれた世代の方にはあまりピンとこないかもしれないが、20年前に日本に導入されたインターネットの本格化(2020年東京オリンピック開催もその後押しとなっている)、個人それぞれが(家電ではなく)携帯電話という情報端末を有すること、結果として若い世代にとって情報の入手先がマスメディアからSNSに移行していること、少子高齢化、労働人口減少と、それを補う労働力と国内需要を補うインバウンドを期待してのグローバル化の流れなどが、どのように日本の「タテ社会」を変えつつあるのか、中根先生に続くような広く深い分析を社会学者にして頂きたいと思う。
文化は簡単には変わらないものであるから、もちろん社会構造自体、変わっていない側面も大きい。拙ブログで繰り返し取り上げているが、女性の社会参画などは、びっくるするくらいに進んでいない。LINEで繋がっている子どもたちの中でも、大人と同じような「タテ社会」のユニットが存在しているだろう。社会環境の変化にも関わらず昭和の時代のやり方が踏襲され、「これまでと同様に・みなと同じようにしていたのに、なぜ問題になるのか?」というような事例には事欠かない。
一方で、日本の人々が「格差」を意識するようになってきたことは事実としてあり、非正規社員の増加、家族構成の中心が「核家族」からさらに「単身家族」に移行しつつある点や、コスト削減のためのテレワークの推進なども心配な面がある。日本型の「タテ社会」では、小集団の中での「甘え」が許されるという意味で、職場等のストレスに対するセイフティネットとしての役割も果たしてきたのだ。
「個人」として大きな組織に属することがこれまで一般的でなかった日本において、「タテ社会」の基本単位から外れた方がどのように社会の構成員として参画していくのかを考える必要があるだろう。
【関連リンク】
産経ニュース・自作再訪:「タテ社会の人間関係」 ソトから見えた日本の構造とは 中根千枝さん(2014.11.24)
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『カラー 生物・生命科学大図鑑: 未知への探求』はスゴい!
http://nosumi.exblog.jp/27581496/
2019-05-02T17:26:00+09:00
2019-05-02T17:26:44+09:00
2019-05-02T17:26:44+09:00
osumi1128
書評
各種の教科書で定評のある出版社さんですが、こちらは米国で広く使われている中学生くらいまでを対象とした生物学・生命科学の「大図鑑」です。
美しい写真やイラストがふんだんに使われているので、眺めるだけでも楽しいですね。
原著者のMichael J. Padilla, Ioannis Miaoulis, Martha Cyrは同様の年齢層を対象とした教科書の執筆に関わっている方々のようで、環境科学についての書籍などもあります。
身近な問題として生物学や生命科学を捉えるための課題がいろいろあるので、夏休みの自由研究用ネタ本などにも良さそうです。
小学校、中学校の時期にこんな本に触れることができたら、きっと生物学・生命科学に親しみを持つ子どもが増えるかもしれませんね。
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五神総長の『大学の未来地図』から読み解く共同参画
http://nosumi.exblog.jp/27575688/
2019-04-29T08:23:00+09:00
2019-04-29T08:23:13+09:00
2019-04-28T22:16:30+09:00
osumi1128
書評
そもそも、京大から東大に呼ばれ「女性学」を立ち上げたという上野名誉教授に今年の来賓祝辞を依頼するというアイディアがどなたからであったのかは不明ではあるものの(その経緯の一部はAERAのインタビュー記事に残されている)、東大総長の五神真先生の合意があったからこそ可能になったものである。そして、もし入学式で英語通訳や手話通訳などの情報保障を行っているのであれば(東大については知らないが、筆者の所属する東北大学の場合は、総長式辞の中に英語パートが含まれており、それ以外の日本語の部分に手話通訳が為される)、祝辞の原稿は事前に大学に渡されていたはずであるから、上野先生の祝辞の内容は大学本部として了解済みであったということだ。
ちなみに五神総長の式辞も東京大学のHPの「式辞・告示集」から読める。良い時代になったものである。
それで、五神先生ご自身が東大の共同参画に関してどのように考えておられるのだろうと思い、近著『大学の未来地図ーー「知識集約型社会」を創る』(ちくま新書、2019年2月10日刊行)を読んでみた。 本書の中心は、「労働集約型」から「資本集約型」への変遷の後、IT化された現代においては「知識集約型社会」を目指すべきであり、そのために知を集約してきた「大学」という存在の価値があるということを軸に、「インフラとしての大学」、「ビジネスパートナーとしての大学」の在り方を提示するものである。SDGsへの対応、教養教育の改革なども書かれている。
折しも、5カ年ごとに閣議決定される「科学技術基本計画」の第6期についての議論がそろそろ始まるタイミングでもあり、第5期で提示された「Society 5.0」のその後を考える上でも、たいへん参考になる資料であった。「あとがき」でも謝辞として述べられているが、各種資料を作成された事務職員の方々の努力も讃えたい。
さて、女性研究者や女性教員について、本書の中では最終の第7章「研究に打ち込める大学へ」で扱われている。
この章で最初に触れられているのは「若い研究者をどう育てるか」ということであり、図7−1として2006年から2012年の間に若手のポストが任期付きに大きくシフトしたことの問題点が指摘されている。「ポストドクター1万人計画」でポスドクとなった研究者の中には、現在、40代後半の方も多いので、このイシューは単に35歳以下の雇用を創出しなければならない、というような単純なものではないことに留意しなければならない。
会議時間を短くして、研究時間を確保すべきであることや、事務系職員の処遇を改善すべきという方策も本書で提示されている。
で、ようやく女性のイシューに到達する。以下、本書より引用。
個人的な話になってしまうのですが、私は妻と共働きで娘を育てていました。子育てをしていると、子どもが急に熱を出したり、予定していたベビーシッターが来られなくなったりと、予想外のこともよく起きました。
(中略)
出産や育児を経験する研究者にとって、長時間の会議にいくつも参加し、遅い時間まで研究室で仕事をするような働き方は問題です。男性研究者であれ、女性研究者であれ、パートナーに家事・育児を押しつけることになりますから、こうした状況は改善しなければなりません。
東大の場合、女性教員は全体の約18パーセントしかおらず(筆者注)、まだまだ少ないのですが、その背景には働く環境が未整備であることも影響しています。男女を問わず、ライフイベントと仕事の両立ができるようになれば、女性だけでなく男性にとっても望ましい環境となるはずです。
筆者注:手元の資料からは東京大学の女性教員は18%もいない(13%)と思われるが(下記、文科省資料に基づく7大学の年次経緯)、五神総長のデータはどういう基準だったのであろうか・・・。そもそも、東大入学者の女性比率が18.1%だったくらいだ。
本書はその後、保育園整備の話や、東京都女性活躍推進大賞受賞のエピソードなどが続き、「多様性と女子学生支援」の話となる。
東京大学における女子学生が少ない理由として、地方の女子生徒が進学しにくいのではないか、ということで「女子学生に対する住まい支援」を行ったという話が出てくる。五神先生によれば、一種の「アファーマティブ・アクション」として、「東京大学は女子学生を歓迎します」というメッセージを発信したつもりらしい。
ただし、これが功を奏していないことは、今年入学した女子学生がさらに減ったことから明らかだと筆者は考える。女子寮を造るよりは、経済支援の方がコストパフォーマンスが良いと判断されたようであるが、「18歳の女子学生が初めて東京で一人暮らし」ということに対しては親御さんの不安も大きいだろう。(ちなみに、東北大学は超理系大学であるが、現在、学部の女子学生比率は27%前後。ユニバーシティ・ハウスには女子フロアがあり、定員の男女比から、今のところ、女子学生の方が入寮のチャンスが高い。)
上野先生の祝辞の中にもあったように、男子学生にとって東大に入学するということのメリットとディメリットは、前者が限りなく大きいのに対し、女子学生にとっては必ずしもそうではない。「東大生であることを伝えない女子学生」は現実に存在する。(どなたかのブログか何かにまとまっていた気がするのですが……)
つまり、問題はお金だけではない。とくに地方では大学進学率も30%代のところはいくつもあり、東京のように50%以上の18歳が大学に進学する地域とは文化が異なる(もちろん、その背景に経済格差も存在する)。「娘は短大で良い」と考える親が地方には多い。
さらに、女子学生にとって魅力的なロールモデルが十分に存在するかどうか、自分にとってのキャリアパス、自分の「未来地図」(いわばドリカムの「未来予想図」)が描けるかどうかも大きな問題なのではないだろうか。
実は、本書の中ではもう1ヶ所、女性のキャリアパスについて言及されているところがある。それはどこか、あえて明確にしないでおくので、ぜひ、興味を持たれた方は本書を読んで探してほしい。
それは、五神先生の娘さんが幼稚園のときに、先生の実験室に来られて、レーザーの赤や緑の光が「きらきらしてきれい」と喜んだという昔話。以下、引用。
「将来はパパのお手伝いをしたい」と口にしていた時期もあったものの、小学校高学年になるとパタっと言わなくなりました。娘は文系に進み、今は民間企業で働いています。
私たちが東北大学サイエンス・エンジェル(自然科学系女子大学院生の有志)の活動として科学イベントを開催する際も同様だが、小学生では女児も興味シンシンで科学実験に参加している。恐らく、そういう女の子たちも小学校高学年になり、将来のキャリアを踏まえた進路などを考える時期になって、周囲からの種々の情報を鑑みて「文系」進学を選ぶのかもしれない。その方が「幸せな未来予想図」として描かれているのだろう。
五神総長がもし本気で東京大学のために、そして日本の将来のために人的多様性が重要だと考えられるのであれば、まずはロールモデルとなる東大の女性教員を3割まで上げれば良い(3割の壁については別途論じるつもりであるが、直近では、総研大学長の長谷川眞理子先生の毎日新聞記事でも触れられていた)。そうすれば、男性中心組織でわからない気づきが多数あるだろうし、必然的に働き方改革をせざるを得ず、それは男性教職員にとっても望ましいことであるし、きっと世界から優秀な女子学生が集まるに違いない。また、3割以上の女子学生が東大のキャンパスの中にいるようになれば、その影響は将来、各界で活躍するであろう男子学生にとっても大きな影響があるだろう。
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『自閉症という知性』を読みました
http://nosumi.exblog.jp/27489411/
2019-03-17T16:38:00+09:00
2019-03-18T08:07:20+09:00
2019-03-17T16:38:25+09:00
osumi1128
書評
『ハイパーワールド』を読んで著者にどうしても会いたくなり、出張でニューヨークを訪れた際にカフェでお目にかかったのが2017年の10月。自閉スペクトラム症(ここでは省略して自閉症としておきます)を「個性」と捉える点で意気投合しました。下記の写真は、カフェの後、ご主人のピートさんと、および同じくYHouseというサイエンスカフェ的な催しの打合せをされた研究者の方(お名前失念!)と合流したときの記念写真。
さて、本書『自閉症という知性』は、さらにその後、日本の自閉症当事者の方への取材に基づく内容も合わせて、新書として手に取りやすい形となっています。ただし、「新書」という形態であるためにやむを得ないところがあるのですが、単行本である前著にある多数の引用文献が、本書には含まれないのが残念……。ぜひ、セットで読まれることをお勧めします。
自閉症は、1943年に米国のレオ・カナーによって報告され、言葉の遅れや「自閉的」な社会性の障害を有する症状が一つのプロトタイプとみなされてきましたが、一方で独立に、オーストリアのハンス・アスペルガーが比較的、高機能な子どもについての詳細な記録を残し、様態の広がりがあることが特徴です。
自閉症の方は感覚過敏が強かったり、コミュニケーションのとり方がニューロティピカル(NT)の方と異なるために、NTがマジョリティである社会での生きづらさがあることが知られています。一方で、NTの方とは異なる認知様式は、いろいろな創造性の源ともなっている可能性についての指摘は、エッシャー、ダリ、ウォホールなどのアーティストの例として本書でも取り上げられています。
米国よりも日本では同調圧力が強いことによって、多数派と異なる個性を持つ方がより生活しにくい側面もあるのかもしれないと感じました。
本書の中で「I am autistic」という捉え方と、「I am a person with autism」という捉え方の違いについて言及されている点が興味深いと思いました。前者では、自分の個性全体として「自閉症的」と捉えるのに対して、後者ではあたかも「がん」のように取り除く対象のように扱われるので、徐々に前者のような考え方の方が増えているとのこと。池上先生は「自閉圏」という言葉を使っておられます。
「自閉圏の人々の知性のあり方を単に医療・福祉の次元のみで考えること」について池上先生は問題提起し、「それぞれに個性的で内面に豊かな世界を抱えている人々」がいることを知ることによって、よりインクルーシブな社会になるべきと考えておられます。
私自身、拙著『脳からみた自閉症 「障害」と「個性」のあいだ』(講談社ブルーバックス)において、自閉症を単なる「障害」とみなすべきではないことを提唱し、領域代表を務める新学術領域研究「多様な<個性>を創発する脳システムの統合的理解」において、学際的な研究グループにより議論を深めています。
本書が多数の方々に読まれることを願っています。
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池上先生が実際に<自閉症アバター>の本人に会いに行く研究旅行に同行したNHKディレクターによる番組が2017年の9月に放送されましたが、関連したウェブ記事が公開されていました。本書の内容の一部を反映していますので、ご参考まで。(注:登場人物の名前の標記が書籍と異なっています)
NHKハートネット(福祉情報総合サイト):自閉症アバターの世界(1)脳内への旅(2019.2.21)
NHKハートネット(福祉情報総合サイト):自閉症アバターの世界(2)仮想と現実を生きる(2019.2.22)
【参考サイト】
拙ブログ:『ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち』に共感する(2017.8.7)
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『分かちあう心の進化』:ヒトの仲間たちを比較する
http://nosumi.exblog.jp/27317271/
2019-01-06T09:00:00+09:00
2019-01-06T09:04:45+09:00
2019-01-02T12:01:16+09:00
osumi1128
書評
本書は日本が世界をリードしている霊長類学や、著者である京都大学特別教授松沢先生が生涯をかけた「アイプロジェクト」の紹介から始まります。多くの研究が「チンパンジーは(ヒトができる)これもできる、あれもできる」という観点で為されるのに対し、松沢先生のグループは「チンパンジーの方がヒトより得意なこともある」ことを示しつつ、どのように進化の過程でヒト特有の特質が得られたのかを考察します。化石情報からは得られない「こころ」の進化を追求するためのアプローチが、現存する霊長類の間での比較を行うことなのです。
2018年6月に岩波科学ライブラリーのシリーズとして上梓された本書は210ページとやや厚め。「東京までの新幹線往復ではちょっと難しいかも……」と思って出張のお供にすることを躊躇ったため読了が遅れましたが、読み始めると面白くて一気に読み通せたのは、これまでに多数の一般書を出されている先生の筆力に加え、もともとNHKのラジオ放送「こころを読む」シリーズの「こころの進化をさぐるーーはじめての霊長類学」という13回の放送を元にしているからでしょう。もっと早く読んでご紹介したかったと後悔。
目から鱗だったのは、ヒトは二足歩行になった「から」手を使えるようになったのではない、という点です。そうではなくて、まず天敵の少ない樹上生活をするために4つの「手」を持つ哺乳類として霊長類が現れ、さらにその中から地上に降りて足を使うようになったのがヒト。そして、ヒトの赤ちゃんは他の非ヒト霊長類と異なり、母親にしがみつかず地面に寝かされることで、最初から手を使うことが可能。そのことは、おそらく道具使用などに大きく影響したものと考えられます。また、ヒトの赤ちゃんが母親に常にしがみつかいていないで寝かされることになったために発達したのが親子のコミュニケーションであると松沢先生は推測します。そのようなコミュニケーションが「分かちあう心」の基盤にあると言えるでしょう。
もう一つ、関連して「言語の起源」についての章にもインスパイアされました。言語学の研究分野には意味論や統語論などがありますが、文の構造を研究する統語論は、いわば「文法」を扱う分野です。チンパンジーを研究対象として言語そのものではなく「行為の文法」を調べることができるということは、とても興味深いと思います。そして、チンパンジーの「数字記憶課題」のパフォーマンスがヒトよりも優れていることから、瞬間的な視覚記憶の能力と、「トレードオフ」によって言語能力を獲得したのではないか、と考察されています。この仮説は、言語コミュニケーションには劣るものの、正確な視覚記憶をもとに絵を描くことができるような自閉スペクトラム症の方がいることからも推察されると言って良いでしょう。
最後に紹介するエピソードは、チンパンジーは絶望しない、ということです。ひたすら「いま、ここ、わたし」という世界に生きているのがチンパンジー。脊髄炎のために首から下が動けなくなってしまったチンパンジーも、毎日、ちゃんと餌を食べられていれば、特段、不幸せには見えないそうです。ヒトであったら絶望してしまうこともあるかもしれません。それは、将来のことを考えてしまうから、つまり「想像するちから」があるためでしょう。究極に言えば、「いま、ここ、わたし」以外のことに思いを馳せることが可能になったからこそ、ヒトは文明を作り出したり、科学や芸術を深化させることができたと言っても過言ではないのです。
松沢先生はこれからもチンパンジーを対象とした研究を続けるとともに、月に行ってみたいと考えているとのこと。無重力・低重力状態を体験するパラボリックフライトにも挑戦したそうです。いつまでもお元気でご活躍を!
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●本書に関連した余談を一つ。筆者が領域代表を務める研究グループ「多様な<個性>を創発する脳システムの統合的理解」の公募研究代表者である東北大学の河田雅圭教授らは、昨年、もしかしたらそのようなヒトの心の特徴に関わるかもしれない遺伝子を同定し、論文を発表したところです。将来、比較認知科学にゲノム科学や人類遺伝学なども導入されていく可能性もあるでしょう。より学際融合的な研究分野として発展すると思っています。
●ちなみに、京都大学の「特別教授」というのは、本当に特別な学者にしか与えられない称号で、現在、4名の方のみ。もっとも最近、加わったのが2018年のノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶佑先生ですが、本書の著者である松沢哲郎先生は2016年より特別教授となられ、京都大学の高等研究院の副院長となられています。
●肩書はさておき、拙ブログの一般読者の方にも松沢先生は「アイちゃんの父」、チンパンジーの研究者としてよく知られていると思います。最初に伺った講演がどちらでだったか忘れましたが、「フー・ホー・フー・ホー・フー・ホー・ウワァオ・ホホホ」というチンパンジーの「パントフート」と呼ばれる挨拶の鳴き声の真似をされたのが大インパクトでした。ちょうど日本学術会議の会員をしていた時期が重なっていたので、神経科学に関連する人文社会科学系の第一部のお話を伺うことができたことは、とても有意義でした。
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ご恵贈御礼『メダカで探る脳の発生学』
http://nosumi.exblog.jp/27267628/
2018-12-14T12:30:00+09:00
2018-12-14T13:04:35+09:00
2018-12-14T12:37:54+09:00
osumi1128
書評
まだ読みこなしていないが、神経発生初期に現れる「三脳胞(一次脳胞)」は脊椎動物の共通なボディプランではない、ということを主張していると、添えられたお手紙に書かれていた。発生学の授業でいつも「三脳胞」や「五脳胞」を紹介しているのだが、それはたいへんだ!
まぁ、確かに、哺乳類のごく初期の神経発生について研究していた頃に、神経板という神経系の原基(元になる組織)の最初のくびれは、中脳と後脳(もしくは菱脳)の境目ではないことに気づいており、モヤモヤとした感じはあった。(元ラボメンバー、現自治医科大学の高橋将文博士の脳科学辞典「神経管」参照)
『神経堤細胞ー脊椎動物のボディプランを支えるもの』(倉谷 滋博士との共著、東大出版会UP Biology)と共通するテイストを感じる本書をじっくり読んだ上で、発生の基盤としての「ボディプラン」を再考しててみたい。
【関連拙著】
『脳の発生・発達ー神経発生学入門』(朝倉書店)
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タイムリーな本をご恵贈多謝
http://nosumi.exblog.jp/27248378/
2018-12-01T10:03:47+09:00
2018-12-02T10:09:31+09:00
2018-12-02T10:09:31+09:00
osumi1128
書評
生命倫理がご専門の石井哲也先生の近著。ちょうど中国でゲノム編集された子どもが生まれたという、まさにそのタイミングでの出版。
「核移植」の技術が確立し、クローン動物を作ることができるようになってカズオイシグロの「私を離さないで」が書かれた頃から、さらに違うレベルになっていると思います。
生命科学分野の研究者や学会がきちんとした議論を行うべきと思います。
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