<   2005年 12月 ( 23 )   > この月の画像一覧

どうぞ良いお年を!

昨晩の積雪はこの冬一番となり、リビングルームからの景色はほとんど白かった。

昨日、そういえばもう地上デジタル放送が開始されたことを思い出し、セッティングを「地デジ」に変えようとしたが上手くいかず、今日の午前中に直しに来てもらうことにした(スミマセン、方向音痴だけでなく、機械音痴でもあります)。
うちのマンションの共同アンテナはNHK総合テレビにゴーストが出るという、公共放送にあるまじき状態であったのだが、地デジにするとそれも解消!
(原理がどうなっているのか分からないのですが・・・)
これでめでたく紅白をハイビジョンで見られることになった次第(別に紅白でなくてもよいのだが・・・)

修士論文の面倒を見るのに、この年末年始は毎日ラボに行っている。
他にも、オフィスの片付けがあるので、やることには困らない。
家でも数日前に賞味期限切れの保存食品をすべて処分したところだが、オフィスもこの2年弱の間にたまったものや、そもそも、人とディスカッションできないくらいテーブルの上に書類が積み重なっている状態をなんとかしないといけない。
始めて見ると、「捨てる」という作業には何か、爽快感が伴う。
ばっさばっさと物を捨てると非常に気持ちがよいのは何故なのか?

いつも思うが、インプットされたものがたまって滞ると、細胞でも生物でも家でもオフィスでも働きが悪くなるものだ。
「ポリグルタミン病」しかり、アルツハイマー病しかり。
「捨てる」というアクションは「吸エネルギー反応」である。

今年の年末年始は仙台で過ごすことに決めたので、お正月に学生を呼ぶことにした。
というか、そういうタスクを持たないとお正月料理など作る気にならない。
そういう訳で、今日は買い出し第一弾。
買い物というのも爽快感がある。
こちらは「発エネルギー反応」かも。

夕方戻って「たたき牛蒡」と「紅白膾(なます)」を作った。
昔はこれに加えて、筑前煮やら栗きんとんやらを作ったものだが、結局自分の好きなものしか作らない(苦笑)。

という訳で、準備万端整って、正統な?日本の大晦日を粛々と迎える。
まもなく紅白歌合戦(それにしても、ネーミングがかなり古い感じですね)。
皆様、どうぞ良いお年を!
by osumi1128 | 2005-12-31 19:15 | Comments(4)

年の瀬の仙台

最近は夜中のエントリーになるので、日付はもう大晦日だが、気分はまだ30日。
今日も午後から雪が降ったり止んだりだったが、仙台市内のショッピングエリアは普通の休日以上の人出となっていた。
お正月用の花をと思って店員に聞くと「明日はお休みです」とのことで、白梅と万両を買って帰った。
本当はまだ白梅の季節ではなく、この時期だったら「蝋梅(ろうばい)」という香りの良い梅があるのだが、その店にはなかった。
万両と合わせるには、黄色い蝋梅よりも、かえって楚々としてよかったかもしれない。

家に帰ってきて、枝振りを見ながら須恵器の壺に活けると、なかなか映りがよい。
下部がほぼ完全な球形で少しだけ広がった頸が付いている須恵器は、もともとは祭器であったのだろう。
肌目が地味なので、たいていの和花なら受け入れる。
(画像は、器を求めた骨董店で撮影された写真を頂いたものをさらに撮影したので、クレジット不明ですが……)
d0028322_11283922.jpg
小林秀雄のエッセイ「壺」に以下のような行がある。

 ともあれ、私は、壺というものが好きである。人間が泥を捏ねて、火で焼く工夫を始めた時、壺を作ってみて初めて安心したに違いないといった感じを与えられるからである。皿でも茶碗でも徳利でも、皆、実は壺に作られて安心したかったと言っている風がある。どうも、焼き物の姿というものは、中身は何でもよい、とにかく物を大切に入れて蓄えるという用を買って出たところに、一番、物に動じない姿を現すようである。


一通り、年賀状も書き終えたので気分がよい。
祖母がいた頃は、一緒にお節料理を作るのが大晦日の行事だった。
今は冷蔵庫もあれば、コンビニは年中無休で開いているので、ほとんどその必要はないのだが、やっぱり何かないと寂しいかな。
明日は買い出しに行こう。

by osumi1128 | 2005-12-31 00:38 | Comments(2)

神の手

捏造問題についてのエントリーではなく、パトリシア・コーンウェルの「検死官シリーズ」の最新ミステリーについてです。

第1作が出たのは1990年で、以後すべての作品を読んでいるのだが、数年前はちょっと筆が落ちたことがありありとしていた。
違う主人公のシリーズにも手を出してはみたものの、あまり受けなかったので、検死官シリーズをさらに続けるために、主人公の検死官ケイ・スカーペッタを、2作前からだったか突然5歳くらい若返らせた。
今は全米法医学アカデミーに勤務している。
亡くなったかと思われていた恋人のベントン・ウェズリーも復活。

原題はPREDATORで、元来は生物学用語で捕食者の意味。
以前、同じタイトルのSF映画があったので、日本語版タイトルではそれを避けようとしたのか。
この原題は、連続殺人事件の犯人という意味であるだけでなく、Prefrontal Determinants of Aggressive-Type Overt Responsivity「脳の異常に攻撃性の原因を求めようとする研究」の略称にもなっている。
物語の中では、 ハーバード大学の医学部付属マクリーン病院の認知ニューロイメージング研究所で密かにこのプロジェクトが行われていることになっている。

邦題の「神の手Hand of the God」は殺人事件に関係のある人物のあだ名であり、略してHog(豚)とも用いられている。
読み終わってみると、これはこれでタイトルに相応しいと思われる。

ミステリー本のことを紹介するのは難しい。
筋を話したら読者に失礼だ。
パトリシア・コーンウェルの作品を読み続けているのは、たぶん調査手法などが最新の技術を用いていたり、犯罪の方もITを駆使したりしているところに現代的なリアリティーを感じるからなのだと思う。
人物描写はそれほど上手いとはいえないし。

でも、次作も予定されていることがよく分かる「いかにも」な伏線があちこちに引かれていた。
やれやれ、きっと次も読んでしまうことだろう。
作者や出版社の思うつぼだ。
by osumi1128 | 2005-12-30 01:02 | Comments(0)

シャボン玉

今日は御用納めの日だ。
にもかかわらず、朝から会議が2つ入っていて、「とにかく今日中になんとかする!」的ノリが夕方まで続いた。
論文のpresubmission queryの手紙を仕上げて、筆頭著者の学生に「オンラインで出しておくように」と言い残し、夜8時からのプライベート忘年会へ。

集まった6人の東北大学女性PIの内訳は、文系1名、他は理系。
本日の話題で一番面白かったのは、「シャボン玉の膜はどのように張るか?」だった。
これは数学科の友人Kさんが、1月のサイエンスカフェの準備として進めている「実験」というか「体験コーナー」のようなものなのだが、曰く「シャボン玉の膜は面積が最小になるように張る」ということ。
で、針金でいろいろな枠を作って、それを石けん水に浸して引き上げると、とてーも興味深い膜の張り方になる。
例えば、三角錐の枠に張る石けん膜はどうなるでしょう・・・?
興味を持たれた方は、1月27日のサイエンスカフェに来仙されるか、数学的に解いてみましょう。

ちなみに、「持ちの良いシャボン玉」を作るための石けん液は、洗剤1:ふのり5:水10という組成だそうで、水はイオンの無い蒸留水が良いらしく、バイオ系の2名と科学系1名は「蒸留水ならいくらでも提供できるよ」と進言。
今日は工学部系のTさんも参加していたので、数学とバイオの間の橋渡しをして頂いた。
by osumi1128 | 2005-12-29 01:31 | Comments(0)

振興調整費公募開始

文科省の科学技術振興調整費の平成18年度の課題募集が開始された。
ウェブページはこちら
これから東北大学の「女性研究者支援モデル育成」のプログラム作成作業に入る。
うーん、冬休みの宿題ってところですね……。
まだ年賀状も書いていないのに、やれやれ。
3年間で2〜5千万円というのは本当に少ない額だということが、試算をするとよく分かる。
それでも「まったくない」よりも格段の進歩だと思う。

関連して、先日のパブコメの結果が公開された(MYさん、情報をありがとうございました)。
いろいろな方達がたくさんの意見を述べられているのが興味深い。
自分の書いたコメントは短く掲載されていて、似たものとまとめられていることもあって、他の方から見たときに取り違えられるかな、という箇所もあったが、まあ、3つエントリーしたものはすべて掲載された。
内閣府として膨大な仕分け作業等をされたことに敬意を表する。
by osumi1128 | 2005-12-28 00:43 | Comments(2)

雪の名前

今年最後の週が明けた。
朝出て行こうとしたら吹雪いていて、車を使うのを諦めた。
何故か雪だと傘をさす気にならないことが多いのは、これまで雪に接したのがスキー場だったからか。
地下鉄の駅から研究室まで15分、傘なしで歩く間に帽子やダウンジャケットに雪が付くが、はたくと簡単に落ちるのは気温が低くて雪が水っぽくないせいだろう。

太宰治の『津軽』には
津軽の雪
 こな雪
 つぶ雪
 わた雪
 みづ雪
 かた雪
 ざらめ雪
 こほり雪
(東奥年鑑より)
という、美しい雪の名前が出てくるが、仙台で暮らすようになって雪に表情があることがよく分かった。
また、雪が風で舞い上がって下から上に流れることや、晴れていてもすでに山に積もった雪が風で飛ばされてくることも知った。
冬至を過ぎて冬はこれからが本格的になるのだが、私には徐々にまた日照時間が長くなっていく周期に入ったことが嬉しい。
現代の日本では、昨日までのクリスマスのデコレーションをはずして、大急ぎでお正月支度となるのがちょっと慌ただしい年の瀬である。
by osumi1128 | 2005-12-27 00:53 | Comments(4)

自動改札機

外国人研究者が日本に来て興味深いと思うことの1つに、自動改札機の機能がある。
いつだったか、「数枚同時に入れても大丈夫なのがすごい」と言っていた人は、新幹線の改札で、表、裏いろいろ混ぜたり、方向も逆にしてみたりいろいろしたが、すべてクリアーしたといって感心していた。
私も是非試してみたいと思いつつ、つい律儀な性格が邪魔をして、乗車券と特急券をきちんと2枚揃えて重ねて入れてしまって、ああ、また同じことをしたと気が付く。

JRも私鉄も地下鉄も自動改札は全国津々浦々まで広がりつつあるのだと思うが、先日東京で私鉄&地下鉄用の「パスネット」とJRおよびりんかい線用の「Suica」と「バス共通カード」が来年ついに合体する、というニュースを聞いた。
こうなるとかなり便利である。
しかも、Suicaはお買い物機能まで付いている。
JRの駅構内の売店で急いでいるときにはとくにありがたい。

ところで、先日、地下鉄に乗るときに、1枚のパスネットが残高不足だったので、「2枚投入可」という自動改札を通り、その後、残高が0になったパスネットをゴミ箱に捨てたつもりが、まだ残高が3000以上あった方を捨ててしまうという失敗をした。
このパスネットを買うときに、「5000円を買うとリスクが高いだろうか?」と悩んだ挙げ句に、「何度も買うのは手間だから……」と考えたのだが、その心配が当たったことになる。
やれやれ……。
ま、Suicaにチャージして地下鉄にも乗れるようになれば、残高の無くなったカードを捨てる、という行為はしないはずだが、それでも落とす、無くす、というリスクはあるかな……。

携帯電話も飛行機のチェックイン用の端末になったり、お財布機能が付いたりする時代だが、こちらは「落としたら大変……」という気持ちが先に立って、まだ導入する気にはならないのだが、それも時間の問題だろうか?
by osumi1128 | 2005-12-25 23:23 | Comments(0)

イリュームの紹介

班会議から戻ると仙台でもクリスマス・イヴなのでした。
どんなに雪が残っているかと覚悟していたら、むしろ数日前よりも少ないくらいですが、でも気温は4度より低いようで、やっぱり北国だと思いました。
首都東京の出勤時間に移動するのは、仙台から出て来ると疲れますね。
これから年末年始はもう出張はないのでほっとしています。

数日ブログにエントリーしない間にもコメントを頂きましたが、「ジェンダー」関係のお話はしばしお休みします。
また、個人的に「これはどうか?」と思うコメントは削除させて頂きました。
またいずれ何らかの意見を述べることもあると思いますので、そのときにはよろしくお願いします。

さて、しばらく前から東京電力の出しているIllumeイリュームという科学情報誌を送って頂いています。
これがなかなか面白い記事があってまた写真やイラストも素晴らしく、読み応えがあります。

今回の第34号の特集は「数学」で、秋山仁さん(東海大)が「離散数学ーデジタル化社会が求める新しい数学」という記事を、辻篤子さん(朝日新聞社)によるインタビューは広中平祐氏、さらにピーター・フランクルさんの「僕の大好きな日本よ、数学を取り戻そうー数学教育改革への提案」と盛りだくさん。
また、Frontier Reportではボストン在住のサイエンスライター吉成真由美氏が「ボストン科学博物館」をレポートしています。
地球の歴史やバイオテクノロジーだけでなく、Mathematicaというコーナーでは数学的現象を模型で示したものなどが展示されているというのです。
今度ボストンに行くときには絶対に見てこようと思いました。

イリューム第34号の紹介はこちら
冊子体送付の希望はこちらです。
by osumi1128 | 2005-12-24 20:16 | Comments(0)

ジェンダー考 その2

今日は担当している「細胞生物学」(医歯1年次対象)の特別講義の講師として、楠見明弘先生(京大・再生研)をお呼びし、「1分子イメージング」などについて講義して頂きました。
楠見先生は、私が助手をしていた頃、何かの折に「できるなら、なるべく早く独立すべき」というアドバイスをして頂いた方の一人です。
当時は「そうかなあ……」と思っていましたが、今では自分より若い世代の人たちに同じように言っていますね。

ところで、このブログの読者にはコメントを付ける方はそんなに多くないのですが、昨日のエントリーについては、1日の間にたくさんのコメントを頂きました。
その中で、もしかしたら私の書き方が、自分の意図とは違う風に受け取られたのかもしれないと思いましたので、もう一度書き直しておきます。

コメントを受けた点の多くは以下の文章でした。
結論。
私はやっぱり「ジェンダー」という言葉が胡散臭くて嫌いである。「フェミニズム」も大嫌いである。
ただし、もし、家庭と仕事の両立や、子育てや介護で大きな負担を強いられ、そのためにキャリアを諦めるような女性が、現実に、多数いるのであれば、その人達のために何か今できることをしたいと、心から思う。


幸い、yukinoさんはこちらの意図を読み取って下さって、
「ただし、もし、家庭と仕事の両立や、子育てや介護で大きな負担を強いられ、そのためにキャリアを諦めるような女性が、現実に、多数いるのであれば、(勿論私はそう考えている。だからこそ)その人達のために何か今できることを(責任ある研究の傍ら、今の状況ではこのようなかたちで男女共同参画に携わることしかできないけど、精一杯努力)したいと、心から思う。」と私は受けとめました。

というコメントを残して下さったのですが、その通りです。
私の思うところは、決して「現実にそういう人は多数いない」と思っているのではなく、「現実に多数いるからこそ」だったのですが、私の日本語の書き方がまずかったのだと反省しました。

少しだけ言い訳するとすれば、昨日のエントリーの前段で、分子生物学会や学協会の男女共同参画連絡会の委員長をしているということを書いており、私の認識としては、そういう活動を、自分のボランタリーな活動の中で重要なことと位置づけている、ということを著したつもりでした。
そういう委員長の立場で、現実に困っている方達があまりいない、という認識を持っているとしたら、それはかなりおかしいのではないかと思うのですが・・・

でも、もしかしたら123さんも同じニュアンスで受け取られたのかなあと思うと、やっぱり日本語の問題だったのかなと思います。

123さんが私のこれまでのブログを読んで下さっていたのかは分かりませんが、「何かできること」という言葉に私が込めた思いは、かなり大きなものです。
現実に困っている方達にどんなことをしたらよいのか、それを「国の施策」というところまで持って行くにはどうしたらよいのか。
単に「現実はこんなに大変だ!」という批判をただ言うのではなく、では「どうすべきか」というところまで踏み込んで、それを実現するには、どんな段取りで、どんな人たちにどいういうふうに働きかけたらよいのか。
ここ数年の間、そういうことを考えながら少しずつできるところか進めてきたつもりです。
その成果が「第3次科学技術基本政策に対する答申(案)」であり、平成18年度科学技術振興調整費の「女性研究者支援モデルプラン」であり、学術振興会の「子育て・復帰支援ポスドク」であると思っています。

その意味で、MYさんからのコメントである「現実に即したプラクティカルなことを議論して解決していくべきではないか」ということを述べようとしたのですが、そのように伝わらなかったということは、日本語が拙かったということですね・・・

123さんは「他人事であって、真に男女共同参画を考えていられなかった」と書かれていますが、昨日のエントリーの冒頭にも書きましたように、私にとってこの活動は「ボランティア」です。
私の本務は東北大学における研究と教育です。
私自身はすでにPIのポジションを得ておりますし、子育てで苦労している訳でもありません。
でも、困っている、これから困るかもしれない人たちに、何かしたいと心から思っています。
「ボランティア」とはそういうものではないのでしょうか?
何か、他者に対してすることなのではないのでしょうか?
by osumi1128 | 2005-12-20 22:14 | Comments(10)

「ジェンダー」は必要か?

仙台も12月には珍しいくらいの大雪である。
幸いセミナーに呼んだ荻野さんは無事に来て頂けてほっとした。

さて、ここしばらく「ジェンダー」という言葉に疑問を感じている。
社会学などの方達の学問や文化を否定するつもりなのではないのだが、どうも生物学に馴染んで育った私には「???」と思うことが多いのだ。

きっかけは、私のボランティア活動の1つである男女共同参画についてよりよく知るようになったからである。
平成13年度に東北大学の男女共同参画委員会が立ち上がったときからその委員を務めているが、当時はほとんど何も分からなかった。
そういう意識を持って育っていなかったのだ。
そうこうする間に、分子生物学会の男女共同参画委員会が立ち上がってその委員長になり、さらに大きな組織である男女共同参画学協会連絡会の委員長をすることになった。
分生や学協会の場合は、仲間は同じ生物系であったり理系の方達である。
しかし、世の中でこの「共同参画」をこれまで推進してきて、現在でも中心となっているのは、おそらく、いわゆる「文系」の方であろう。

文系の方々は好んで「ジェンダー」という用語を使われる。
ジェンダーはごく普通の定義としては「社会学的性」であり、「生物学的性」であるセックスと対比される。
「女らしさ」は社会的に与えられたものである、という考え方は、確かに「そうかな」と思う部分もあるが、どこまでが社会から押しつけられたものなのかは、判定が難しい。
だが、そもそもわざわざ「ジェンダー」という言葉を使う必要はあるのだろうか?

いくつかの文献を読んでみて、実は非常に驚いた。
なんと、「最近のフェミニズムの議論は、もっと大胆な視点を提起している。セックスがジェンダーを規定しているのではなく、むしろ、ジェンダーがセックスを規定している、という指摘である」(『女性学教育/学習ハンドブック ジェンダーフリーな社会をめざして』国立女性教育会館 女性学・ジェンダー研究会編著 有斐閣)という記述を見つけた。
いったいどうしたら、「社会学的性」が「生物学的性」を規定することができるのだろうか???

上野千鶴子氏による『差異の政治学』(岩波書店)はもっとすごい。
「遺伝子、内分泌、外性器のどれをとっても、自然界には性差の連続性があるのに対し、文化的な性差は中間項の存在をゆるさず、男でなければ女、女でなければ男、と排他的な二項対立のいずれかに、人間を分類するのである。」
どうも、根本的に「生物学」や「統計学」が分かっておられないように思う。
染色体レベルの性としては「XX」と「XY」がほぼ半々で、ヒトの大多数を占めている。
確かに性染色体の異常を持つヒトは生まれるが、それはごく稀であって、「連続的」と言えるようなものではない。
染色体レベルで「XY」であっても、Y染色体の遺伝子の一部に傷が付いていると、雄としての発生を遂げられない場合があることは確かだが、これも非常に稀なことだ。
生物学的にヒトは「イブ原則」があって、デフォルトは雌であり、特定のホルモンのシャワーをあびることによって雄化するということは確かである。
しかし、「ホルモンの連続性からいえば、世の中には「より男性的」もしくは「より女性的」なホルモン分泌をもった個体、または状態があるにすぎない」(同上)という概念は正しくない。
ヒトの雌と雄は一つの大きな正規分布の中に存在しているのではなく、雌の何かの性質の正規分布と雄の何かの性質の分布は離れたメジアンをもつ2つのグラフであって、確かにその重なり合うところはあるだろうが、それは全体の集団の中ではごく稀なのだ。

上野氏は「文化的な性差は中間項の存在をゆるさず、男でなければ女、女でなければ男、と排他的な二項対立のいずれかに、人間を分類するのである。」と述べておられるが、「オカマ」や「ゲイ」という分類は立派に文化的な分類であって、生物学的には、染色体レベルや肉体的レベルでは「男性的」と分類されるだろう。
生物学には明確な基準がある。
ただし、「脳の性差」においてはその嗜好性が通常の男性とは異なると考えられる。
その理由はまだ不明である。

いったいどうしてこんな本が書かれるのか?
「ジェンダー学」を学ぶ人たちはこういう本を読んで育つのか?
高等学校ですべての生徒にきちんと生物学やら統計学やらを教えないのは間違いではないのか?
優秀な生物学者は論文を書くのに夢中で、あまりにもさぼっているのではないだろうか?
当たり前の普通のことを普通の人たちに普通に伝える本がもっと必要ではないか?

結論。
私はやっぱり「ジェンダー」という言葉が胡散臭くて嫌いである。
「フェミニズム」も大嫌いである。
ただし、もし、家庭と仕事の両立や、子育てや介護で大きな負担を強いられ、そのためにキャリアを諦めるような女性が、現実に、多数いるのであれば、その人達のために何か今できることをしたいと、心から思う。
あるいは、「女の子だからエンジニアになるのは無理かなあ?」と思う中学生に、「なりたいものになっていいんだよ」と背中を押してあげたいと思う。
それはすでに一山超えることができた人間としての務めだと考える。
by osumi1128 | 2005-12-19 23:58 | Comments(30)