ETV「サンデル先生白熱講義」を見て:一期一会のパフォーマンス
2010年 09月 27日
安田講堂は実は鬼門なのだが、その話は今日は割愛することにする。
2コマ分を大いに超過しての講義だったらしいが、それをカットして90分にまとめてあった。
マイケル・サンデル教授の講義「Justice」はハーバード大学からのコンテンツ提供としてiTuneUにも無料でアップされているし、TEDのトークにもなっているのですでに観てはいたが、今回、公募されて集まった日本の学生達が、サンデル流の講義に、どんな反応を見せるのかに最も興味があったのだ。
すでに「白熱教室」はシリーズで放映されているので、参加者の多くはサンデル・スタイルを知っており、さらに、すでに毎回、Twitter等でもハッシュタグが付いて関連ツイートがまとめられたりもしていることも分かった上での参加であっただろう。
実際にその場にいたわけではないので、「これこれについて意見のある人は?」と問いかけられて、どのくらいのタイムラグで手が挙がったのかは正確にはわからないが、少なくとも最後の方では、レスポンスは良かったのではと思う。
インタラクティブな講義自体は、別にサンデル先生の専売特許ではない。
それこそギリシア哲学の時代から、「対話」によって学問を究めることは西洋スタイルの基本。
「禅問答」とは異なり、直観よりも理詰めが重視される。
また、たくさんコンテンツを準備することなく、質疑応答に多くの講義時間を費やすのは「手抜き」であると言えなくもない。
それでもサンデル教授の人気講義に注目が集まったのは、やはりそのパフォーマンスの洗練度においてなのだと改めて感じた。
喋り方、間合いの取り方、身振り、多数の聴衆への視線の向け方、そういった「テキスト」に書き起こせない部分において、彼には天賦の才能があり、さらにそれを磨いていったことが伺われる。
そして、このような「パフォーマンス」は恐らく、グローバルに通用する。
今回取り上げられたのは「イチローの給料は高いかどうか」「家族が殺人を犯したことを通報するかどうか」「オバマは原爆のことを日本に謝るべきか」などの話題だが、それは「所得格差をどうすればよいか」「血縁と国家とどちらが重いか」「先の世代が冒した過ちを後の世代が償うべきか」といった抽象的な問いよりも考えやすい。
結局は「答えがない」ような問いであったとしても、考え続けることが大切であるということが大きなメッセージであり、多様な考え方をし、先々にはそれを論破するためのトレーニングなのである。
翻って、今日本で講義をインタラクティブに行うには相当の「お膳立て」が必要だ。
「これには〈答え〉が無いけど、あなたはどう思いますか?」
「初めて聞くことだから〈答え〉は知らなくて当然だけど、直観でどう思う?」
「前に座っている人から、順に訊いちゃうけど……」
そういう前振りをして、ようやく答えを引き出せる。
あるいは「質問3つ出なかったら、この授業終わりにしないからね」などと言うこともある。
学生達は質問されると、まず回りの様子を伺って、多数派に加わろうとする傾向が著しい。
この態度自体は、高度に社会性を発達させてきた人類として生得的な反応だとは思う。
だが、比べてみると、日本の学生達の「空気を読みたがる」傾向は非常に強い。
ましてや「対立する意見を述べる代表」として、1000人の聴衆の中に立つなんて、どれだけ大変なことだろう。
国内でも、例えば理化学研究所脳科学総合研究センターが毎年行うBSI Summer Programで担当する講義の場合には、日本人率が25%程度になるので、ほとんど海外で行うのと同じようなものだろう。
私も数年前に講師をさせて頂いたことがあるが、この場合には、質問に対してすぐに手が挙がる。
そういう環境で議論の仕方を体得できれば良いのだが、日本の初等中等教育の現状はそうではない。
繰り返すが、サンデル先生の講義はオンラインで視聴することができる。
だが、その臨場感はリアルに体験しないとわからないだろう。
オープンエデュケーションのことを少し前に書いたが、オンラインで体験できるコンテンツは今後もっと充実させるべきであと考える。
だが、どれだけオープンなコンテンツが増えたとしても、リアルな講義は必要だと思う。
講義の場にいて、同じ空気の中で、どれだけインタラクティブになれるか。
それは、教師だけではなく、聴講する学生も一緒になって行う「一期一会のパフォーマンス」なのだ。
サンデル先生の講義を見て、グローバルな社会では、こうやって育った人たちと付き合っていかなければならないことが学生さん達に伝わってくれたらと思う。
【参考サイト】
マイケル・サンデル:失われた民主的議論の技術(TED TALKS日本語字幕付き)
サンデル東大講義放送実況(Togetterまとめ)