ゼキ先生のブログより:「宮島達男:絶え間なく変化する世界の美術作家」【リンク追加】
2011年 01月 31日
これがなかなか、英国流のユーモアとウィットに富んでいて面白いのだが、1月31日付けで書かれたものの1つで、ちょうど上記のイベントで対談して頂いた、現代美術作家の宮島達男先生(東北芸工大副学長)を取り上げられていた。
以下、拙訳しておく。

画像は、イベント後の夕食の席において、奇しくも宮島先生の師匠の榎倉康二氏の作品を鑑賞されるゼキ先生と宮島先生
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Tatsuo Miyajima, the artist of our endlessly changing world
宮島達男:絶え間なく変化する世界の美術作家
先週、仙台にて、素晴らしい日本の美術作家、宮島達男氏と市民向け対談をするという非常に喜ばしい機会を得た。
大抵の作家は、あるいは少なくとも私の知る作家は、自身がその作品に入れようとする哲学的な見地があることを否定する。例えば、セザンヌらの作品を「描かれた認識論」として捉える者がいる。だが、セザンヌ自身はこのことを否定しており、美術評論家でありディーラーでもあるダニエル・ヘンリ・カーンウィラーは、彼の知る多くの画家(パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、モーリス・ヴラマンクらを含む)の誰一人として哲学的思想を持つものはいないと主張する。
ところが、宮島達男はそうではない。彼は、日本の、そしてもちろん東洋の哲学に深く根ざしており、それはひと言で言うと次のようにまとめることができる。「万物は流転する。」そして、宮島はこのことを、絶え間なく変化する種々の色がついた数字のディスプレイによって視覚的に表現する。その数字にはゼロが無い。それは彼の思想においては死のメタファーなのだ。だが、その点に関して言えば、仏教文化においては、真の意味での死は無く、あるのは変化のみである。
したがって、ある意味、宮島は新しい電子的な媒体を用いることにより、古代の東洋思想に根ざしたメッセージを伝えようとしているといえる。そして、それがうまくいっているのは、一部には、宮島の作品が視覚的に非常に魅力的なことにより、また、媒体に新規性があることにより、観るものをもってそのメッセージを理解しようと務めさせるからだ。実のところ、宮島はアートに関して鏡のようなものだと述べている。それは、観る者が問いかけ、何かを、自身に関して知る鏡であると。その何かとは、絶え間ない時の移り変わりであり、避けることのできない変化であり、また対称的に、陳腐な時間でもある。
だが、もちろん、時間は陳腐ではない。なぜなら、それは変化の一部であり、輪廻にもっとも深く関わり経験されるものである。
ロンドンにおいて、より多くの宮島の作品を鑑賞する日が遠からんことを願う。また、その展観のカタログには、TSエリオットの以下の四行詩(バーント・ノートン)が含まれることを望みたい。
Or say that the end precedes the beginning,
And the end and the beginning were always there
Before the beginning and after the end
And all is always now.
あるいは終わりははじめに先だち
果てとはじめはつねに在る
はじめの前と終わりの後
すべては常に今となる
(拙訳です)
この詩は宮島のアプローチを一般的に表すのに非常に良いもののように思える。
彼の作品は私をインスパイアし、多くの実験を考えついた。そのうちのいくつかは実際にできると考えられる。どのようなレベルであれ、宮島の作品を脳やその活動との関係において彼とともに議論することは、まったくの喜びといえよう。
【参考リンク】
ゼキ先生の最新著書:Splendors and Miseries of the Brain: Love, Creativity and the Quest for Human Happiness
翻訳されたゼキ先生の御著書:脳はいかに美を感じるか
フクヘン。:宮島達男「Warp Time with Warp Self」(展覧会は終了していますが、最新作品の画像多数)
フクヘン。:シンポジウム「脳科学と芸術との対話」
脳科学グローバルCOEwebsite:シンポジウム「脳科学と芸術との対話」
仙台通信:ゼキ先生X宮島先生「脳科学と芸術の対話」