翻訳本校正しながら日本の大学入試制度を考えてみた

気付けばもう弥生。
仙台では陽射しが春めいても風の強い日が多い時季で、体感温度はなかなか暖かくならない。
諸事情によりブログ毎日更新は諦めましたが、ご贔屓に頂ければ有り難いです。

さて、『Why aren't more women in science?』という本の翻訳を行っており、某出版社の編集者さんに多大なご迷惑をかけつつ、校正にかかっている。
この本のユニークなところは、心理学、認知科学、社会学、教育学等の研究者が出来る限り科学的な根拠に基づいて「なぜ女性科学者が少ないのか」というトピックに関して論じているところで、必ずしも一致した見解となっている訳ではない。
「赤ちゃんの頃から遊び方も違う」という意見もあれば、「親の接し方が女児と男児では異なるので、育てられ方が違う」という主張もある。
脳の構造や認知機能の男女差や、性ホルモンの影響等についても詳しく書かれているので、刊行された暁には、是非ご紹介したい。

本書を翻訳する過程において学んだことの一つは、米国の入試制度だ。
ちょうど先月末の前期日程入試において、京都大学の受験生が行った「ネットカンニング」が話題になっているのを横目で見ながら、そろそろ日本の大学入試のやり方について考えた方が良いのではないかと思っている。




どの大学においても、入試は教職員ほとんど総動員のノリで行う一大行事だ。
いわゆる「国立大学」では、全国共通のセンター試験の後に、それぞれの大学が独自で二次試験を課す。
今年からうちの医学系研究科では面接に小作文も加えて、さらに手間暇かけるようにして、その日はかなりの教授が面接官を担当し、さらに入試に関わる先生方は夜中まで判定にかかったと聞いている。
定員の数倍の受験生を相手にするため、試験場の確保や、筆記試験監督、誘導係等、教授以外の教員や事務系職員もかり出される。
筆記試験の採点が為され、集計され、定員と照らし合わせてボーダーラインを教務委員会の先生方が判断し、でも最終的には教授会で合否判定を行う(誰かの責任にしない、という日本的なやり方)。
日本では大学の「入口」において厳しいスクリーニングをし、一般的には「出口」は比較的容易となっているために、入学試験が一大事なのである。

米国の入試制度としては、高校で履修した科目とその成績、SAT-Mと呼ばれる科学・数学の統一学力試験の成績、自己アピール(なぜ、その大学で学びたいのか、どんな科目をMajorとして専攻したいのか、高校時代等にどんなユニークな活動を行ったか)、そして推薦状を郵送し、場合によっては面接もありえるが、それは全員に課される訳ではない。
そもそも、西海岸から東海岸まで飛行機でも6時間くらいかかる広大な国土だから、大学に呼びつけて一斉入試など行ったら大変なことになる。
受験生はいくつかの大学に上記のような必要書類を送り、入学許可の通知が届くのを待ち、複数あればその中からどこか1つを選択して意思表示する。
大学に入ってからは厳しい勉強が待っていて、楽に卒業できる訳ではない。
テニュアの教授全員が入試に関わるなんてこともない。
まして、Assistant Professorが学部の試験監督にかり出されることなんてありえない。

例えば、ハーヴァード大の学部への応募についての情報はこちら
ちょっとそのポリシー「どんな人材を求めているか」を引用する。
Applicants can distinguish themselves for admission in a number of ways. Some show unusual academic promise through experience or achievements in study or research. Many are "well rounded" and have contributed in various ways to the lives of their schools or communities. Others are "well lopsided" with demonstrated excellence in a particular endeavor—academic, extracurricular or otherwise. Still others bring perspectives formed by unusual personal circumstances or experiences.
応募者の合否判断は多様である。勉強や教育における経験や達成によって、学術分野に秀でているという判断もある。「バランスが取れていて」、所属する学部やコミュニティーでの生活に多様に貢献すると判断される人物は多いだろう。あるいは、バランスには欠けるが特別な才能ー学術であれ、学業以外であれ、あるいはその他の経験であれーを持った人材も必要である。さらには、個人の特異的な環境や経験により、他者に影響を与えうる人材も求められる。(拙意訳)


ちなみに以前、知り合いのお嬢さんがオックス・ブリッジを目指していて、その話によれば英国でも似たようなものだと思う。

少し前に、「新卒の一括採用のために就職活動を強いられるのはいかなるものか……」と思っていたのだけど、よく考えたら、日本の大学自身が「一斉入試」を行っていたのだった。
均一な学生を受け入れて送り出せば良かった時代と、今は違うのではないかと考える。
それはまた同時に「格差」を受け入れることともつながるのだが、その方が皆があくせくしないで済むのではないかと思う。
今回の事件がらみで、お願いだから勘弁してね、と思うのは、「ネットカンニングはズルイ!」という受験生やその親への対応として、「試験監督をさらに厳しくするために増員する」ようになっちゃったりすることかなぁ……。
(いえ、ネットカンニングを良いと思っている訳ではありませんが、念のため)
by osumi1128 | 2011-03-04 19:11 | 科学技術政策

大隅典子の個人ブログです。所属する組織の意見を代表するものではありません。


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