書評:丸谷才一の『文章読本』

今回いちおう「主催者側」として理研の発生再生センターの会場を使わせて頂いて、その使い勝手の良さを改めて認識したが、その話は画像を整理してから再度載せるとして、アップし損ねていた書評を挙げておく。
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書くことが好きなのは一人っ子だったからかもしれない。
家の中に同世代がいないという環境は、自然と本の世界への誘いとなり、だからといって本読みが皆、書くことも好きな訳ではないが、私の場合は自発的に書くことに喜びを覚えるように育った。
小学校の作文や夏休みの絵日記だけでなく、学級新聞を模造紙に書いたりもした。
そういえば「ガリ版刷り」なんて表現手段もあったっけ。
中学の頃には親友と交換日記(!)をしたり、夏休みの間は数日おきに文通なんてやりとりがあり、あぁ、確か「コピー」のプロトタイプのような機械があって、文集のようなものを作るのに使われていたと思う。
高校では文化祭委員としてプログラム集を編集したり(オフセット印刷)、近所の商店街に(毎年のことではあるのだけど)広告を取りに行ったり。
……うーん、だから今とやっていることは大して変わってないってことね。
ブログを書くのも、広報誌作るのも、学会主催するのも、規模はいろいろ違うけど似たようなものか。




さて、それでもって丸谷才一の『文章読本』なのだが、そういえばこの手の本を読んだことが無かったので、古くは谷崎だったり三島だったりと、同じタイトルの本がある中で、比較的新しい、といっても旧仮名遣いの丸谷才一の本を、先日の海外出張のお供に連れて行った。

一種の「ノウハウ本」であるには違いないのだが、巷で使い捨てのように溢れているその手のものとは時代も違うし、読者数だってさほど期待できる本とは言えないだろう。
日本語の書き言葉は、千年かかって中国からの影響を漢文や漢文的和文として消化した訳だが、そこに幕末〜明治維新が来てしまって、今度は西洋の言葉の理解も必要となった。
漢字、平仮名、片仮名、今ならそれらに加えてアルファベットも混じる文章を駆使する書き言葉というのは、世界中でも珍しい。
富国強兵をもっぱらの目的として、科学技術や社会制度を取り入れる過程で媒介となって西洋語に、「漢字」を宛てて訳語を〈日本語として〉創造した、ということは、案外、皆、見逃していて、先日も授業で「〈細胞〉や〈神経〉という専門用語は、中国から輸入されたのではなく、日本で創られて、今では中国に輸出されているのです」と話したら、聴講していた中国人留学生が「I don’t know」と言ってきた。
やれやれ……。

丸谷才一は、そんな混乱した日本語をどのように「新しい和漢混合文」として洗練されたものにするのかについて、日々考えていたのだなぁと思う。
そのあたりは、「文体とレトリック」や「現代文の条件」の章に詳しい。
出だしの「良い文章を書くには良い文章を読むに限る」という指南は、ある意味当たり前過ぎてなんだかな、という気がしたが、まぁ、高校の古文で源氏物語の「いずれのおほんときにか 女御更衣あまたさぶらいたまひけるなかに、いとやんごとなききはにはあらねど、すぐれてときめきたまうありけり」をはじめとし、枕草子、徒然草、方丈記、平家物語等の古典の冒頭を暗誦させられたことは、良かったのかもしれない。
「イメージと論理」や「目と耳と頭に訴へる」という主張は、改めてなるほどと感じた。

ただし、丸谷才一の考える「良い日本語の文章」は決して「科学論文」の場合を想定している訳ではない。
「起承転結」の「転」についてポジティブな評価をしているが、科学論文のロジックで「転」があるとむしろ流れが通らなくなる。
だが、改めて、例えばこういう書評なども含めたエッセイ等を執筆する際には、出だしの「起」を受けて「承」に繋いだ後に、ちょっと「転」じるというのも趣があることは確かだ。

まぁ、そんな訳で、1980年初版の本書を2011年に読む価値はある。
引用されている文も全部を読みこなせなかったので、しばらく手元に置いておこう。
by osumi1128 | 2011-06-06 08:10 | 書評

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