敗戦処理のしかた:風評被害に立ち向かうこと
2011年 10月 19日
東北大学のキャンパスは仙台市でも津波はまったく被っていないので、さすがに7ヶ月経って「あのときは大変だったね……」モードだし、放射能レベルは、心ある方がずっと記録をとり続けて下さっているのだが、世界平均の半分。
なので、「志願者が1割減る」ことに対しても、一般的には鈍感だと思う。
だが、大学というのは人材を育てるところなので、志の高い方が多数応募して頂く中で入学者を厳選するのが理想だから、志願者減少は由々しき問題。
上記のasahi.comの記事は河合塾の集計で、はてさて大学院生や留学生の場合にはどうなるか……。
……なんてことを思っていたら、さらにこんな記事を教えて頂いた。
FUKUSHIMAの本質を問う【3】“父親不在”が招いた風評被害の拡大
技術産業コンサルタントの川口盛之助氏に聞く
「日本企業の製品が日本以外の国で生産されていても不安に感じるか?」との問いに対して、「不安だ」との回答が米国で21%、英国で15%、中国では46%に達しました。つまり、それだけの人々が「放射能が怖いから買いたくない」と思っているのです。(上記記事より引用)
まぁ、中国はメラミン混入事件の際のしっぺ返しでもあるし、米国だってBSEの全頭検査に辟易していただろうから、本当に不安に感じる以上の回答でもあろうとは思うが、これと似たことが恐らく、来年度の留学生激減に繋がるのではないかと考える。
この記事はなかなか読み応えがあったのだが、中でも
日本は実際に体験してこそ好きになってもらえるタイプの国です。コンテンツとしては良いものを持っているのですが、言語に弱く、魅力を伝える表現力に乏しい。要するにPRがヘタなんです。
という部分の分析が面白かった。
TOTOウォシュレットが製品開発か26年も経って、ようやく世界でも売れるようになったという話を引き合いに出した後で、風評被害の原因について分析している。
以下、長いがそのまま引用させて頂く。
日本人は風評被害に対して鈍感です。海外からどう見られているのか、興味がないからでしょう。そのことを裏付ける興味深いデータがあります。豊かさの指標である国民1人当たりGDPと、語学力の指標であるTOEFLのスコアは相関関係があり、韓国でもインドでも、豊かさと英語の成績は比例しています。ところが、日本はGDPに対して語学が極端に弱い。語学レベルで言えば、発展途上のアフリカ諸国と同等です。つまり、日本人は世界でも際立って豊かなのに、本気で英語を学ぼうとしない。富が地面から湧き出してくるという幸運な石油産出国の人々のように振る舞っているのが私たちなのです。言語の壁を理由に海外を知ろうとしない。何を言われているのかも知らない。だから、風評被害に対して能天気というか、無頓着でいられるのだと思います。
震災後、うちの研究科のHPも必死に英語での発信を、むしろ日本語より先に心がけたりしたが、それでも英語版コンテンツが充実していないことは否めない。
これ、本当に抜本的改革が必要なのではないかなぁ……。
わかっている研究組織は、例えば理化学研究所の発生再生総合研究センターや脳科学総合研究センターの広報関係部署のように、英語がネイティブな人材を活用しておられる。
川口氏の分析はさらに続き、日本には風評被害に立ち向かうべき「父性」が欠如していることを指摘している。
2007年に上梓した『オタクで女の子の国のモノづくり』ではいっそ開き直って母性と子どもっぽさを売りにしようと書いたのですが、こういう事態になると、やはり父性なくして国は成立しないとつくづく実感します。母性とは世の荒波にさらされないように大切に守ること。持てるリソースの価値を最大化するという視点では母性が大事ですが、降りかかる被害を最小化するという場面では、父性が出動する必要があるのです。
最後に挙げている風評被害軽減策が面白いので、ここに引用しておく。
もう一歩踏み込んだアイデアとしては、成田空港で海外からやってきた添乗員にガイガーカウンターを国費で無償配布すること。…ガイガーカウンターをもらった添乗員は日本の観光地を巡りながら、ちょこちょこ測定するはずです。そのデータがブログなどにアップされれば、有効な情報の可視化ですよ。さらに、帰国した後も手元に測定機器があれば、自宅や職場で使いたくなるはず。その数値と日本の数値を比較して「大して変わらないじゃないか」とつぶやいてくれたら、それは日本が失った「安全」というブランドイメージを取り戻すきっかけになるかもしれません。
311の大地震や大津波は1000年に一度の天災だし、FUKUSHIMAは人災かもしれないが、今さら「それが起きなければ……」と言っても仕方ない。
「これから」をどう乗り切るかが問題。
今読んでいる塩野七生の『ローマ人の物語』から引用する。
敗けっぷりに、良いも悪いもない。敗北は敗北であるだけだ。重要なのは、その敗北からどのようにして起ちあがったか、である。つまり敗戦処理をどのようなやり方でしたのか、である。(『ローマは一日にして成らず(下)』第2章 共和政ローマより)