梅の季節に:ロールモデルはキュリー夫人だけじゃない【加筆】
2012年 03月 02日

梅が咲いて、桃が咲いて、同じくらいに木蓮が咲いて、それから桜、と思っていたら、こちらでは梅と桃は同じ頃だし、木蓮が桜よりも後だったりする。
植物の開花は、気温に依存していたり、日照時間がポイントだったりするので、順序が変わるのもそんな理由なのだろうと思う。
一斉に春の花が咲くのはとてもゴージャスではある。
梅は実家の家紋でもあるし、桜よりも香りもあるので好きな花だ。
少し早めに開花する蝋梅もお正月の飾りに素敵だし、紅梅、白梅、それぞれに美しい。
平安時代には桜よりも梅の方が愛でられていたという。
……えっと、今日は何を書こうかと思っていたのかというと、『白梅のようにー化学者 丹下ウメの軌跡』(蟻川芳子、宮崎あかね共著、化学工業日報社)のネタ。
丹下ウメというのは、1913年に東北大学に入学した3人の女子学生のうちの一人だ。
皆さんご存知かどうか、日本で初めての女子大学生を受け入れたのは東北大学なのだが、この年に入学した3名の女子学生の所属は理学部だった。
つまり、日本初の女子大生は意外にも理系だった訳だ。
なぜ、東北大学が初だったかというと、初代の学長である沢柳政太郎が「門戸開放」を大学の理念の一つとして謳ったから。
つまり、旧制高校出身でなくても、高等女子師範(今のお茶の水大学)や日本女子大学校の出身者も他の高等師範学校等と同様に受験資格を認めたのだ。
1913年の8月6日付の新聞にこのことが記載されており、さらに東北大学には当時の文部省とのやりとりの書簡が残っている。
簡単に言えば、文部省が「女子を帝国大学に入学させるとはいかなることか」と糾したのに対して、そのときの第二代学長が「我々は旧制高校出身者以外にも受験資格を与える方針である」と突っぱねたのである。
今、そんなこと、なかなかできないだろうな、と思うと、大正時代のはじめに大学を作ろうとした方々の気骨は素晴らしかったと言わざるを得ない。
さて、丹下ウメは勉強熱心な薩摩おごじょであり、引き立てる人があって日本女子大学校に学ぶ機会を得、さらにそこから長井長義先生の勧めにより東北大学を受験して見事試験に合格した。
普通に入学した学生よりもすでに経験があったので教授の助手を務めるなどもし、卒業後には米国のスタンフォード大学、コロンビア大学を経てジョンズ・ホプキンス大学に留学。
そこで博士号を取得したのが、1927年のことだ。
著者の一人である蟻川先生は、ジョンズ・ホプキンス大学に出向いて、その博士論文を実際にご覧になっている。
留学後には母校である日本女子大学校で教鞭をとるとともに理化学研究所に勤務し、ビタミン研究で有名な鈴木梅太郎とともに研究を行った。
ウメは「実験が上手い」方だったらしく、その秘訣として「何も秘伝はありませんが、自分で飼育した若いラットを他人に任せず、どこまでも自分で見てやって、特徴を的確につかんでおくことです」と答えたという。
これは動物実験を行う研究者なら心に留めておくべきポイントで、実験に用いる対象の細かな違い(雌雄の差、週齡の差、さらに細かな体重の差などの個体差)をどれだけ把握しているかは、データの読み方に影響する。
丹下ウメは1955年にその生涯を閉じた。
出身地の鹿児島市には銅像が建てられているという。
東北大学は2013年に、丹下ウメらの入学百周年を記念した行事を行う予定である。