PTSDと魚と男と女
2012年 05月 26日
先週の土曜日に、日本栄養食糧学会のランチョンセミナーで座長をしたのだけど、講演をされたのは精神・神経医療研究センターの松岡豊先生。
「魚油でトラウマからこころを守れるか」というタイトルで、会場は満席だった。
松岡先生は、元々は精神科でサイコオンコロジーがご専門だったが、数年前からPTSDに関する研究をされている。
日本ではPTSD(心的外傷後ストレス障害)というと、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が有名だが、頻度としては交通事故によるものがもっとも多いという。
また、発症には男女差があり、女性の方がPTSDを発症しやすい。
不幸にして心に強いストレスのかかる事故が起きてしまうのは防げないとしても、その後のPTSDの発生を予防できないか?
松岡先生は共同研究者の井ノ口馨先生(富山大)のマウスを用いた研究(Kitamura et al., Cell, 2009)にヒントを得て、オメガ3系の高度不飽和脂肪酸投与によるPTSD予防戦略を考えられた。
[画像はオメガ3脂肪酸研究の大家であるNIHのヒベルン先生が表紙になったEating Well Magazine]
井ノ口先生の研究では、通常は1ヶ月の間に恐怖記憶が海馬から大脳新皮質に移行するのに対して、神経新生を低下させると、1ヶ月経っても海馬に残り、逆に神経新生を向上させると海馬からの記憶の消去が早まるということが示されている。
つまり、PTSDの状態は神経新生の低下によりもたらされる可能性があるので、何らかの方法により神経新生を向上させることが望ましい。
上記マウスの実験では、ケージの中に回転車を入れて自発的な運動を促すことにより神経新生を向上させたが(これは世界中で再現性が取られている事実である)、心的外傷を受けた人に「運動が良いですよ」といっても、なかなか難しいであろう。
そこで着目したのが栄養素であり、中でも、これまでから心臓病、動脈硬化等に良いと言われていた魚油や、その主成分であるオメガ3系の高度不飽和脂肪酸なのだ。
このプロトコール(臨床研究のテザイン)を総説として発表されたのが2011年の2月末。
Clearance of fear memory from the hippocampus through neurogenesis by omega-3 fatty acids: a novel preventive strategy for posttraumatic stress disorder?
Yutaka Matsuoka
BioPsychoSocial Medicine 2011, 5:3 doi:10.1186/1751-0759-5-3
そこにちょうど311大震災が起きた。
その日、松岡先生は米国の学会出張から帰るところだったのだが、震災の影響により日本行きの便がキャンセルになって、3日間ホテルに缶詰だったという。
CNNで繰り返し放映されていた映像は「おそらく日本で流されていたものよりもショッキングだったのではないかと思う」とのことだったが、この間、松岡先生は被災地の医療支援に携わるDMAT部隊の方々を対象とした調査と介入試験を行うことを思いつかれた。
「被災地でもそうだったと思いますが、自分も何かとても取り憑かれたようにハイになっていました」
徹夜で実施用のプロトコールを書き、職場に戻ってすぐに倫理委員会に申請を出して、3月末には承認を得ることができた。
被災地に入った約1900名のDMAT隊員のうち、約400名が調査研究への協力を承諾し、約200名が「魚油投与」もしくは「魚油投与+心理カウンセリング」の介入対象者となった。
この解析結果はちょうど論文掲載が決まったとのことなのだが、現時点ではまだ公開されていない。
(公開された時点でこのブログには追記します)
介入試験をしなかった調査研究の結果はPLoS ONE誌に公開されているが、繰り返し悲惨なTV報道を観ることが悪影響を及ぼす可能性を指摘している。
Peritraumatic Distress, Watching Television, and Posttraumatic Stress Symptoms among Rescue Workers after the Great East Japan Earthquake.
Nishi D, Koido Y, Nakaya N, Sone T, Noguchi H, Hamazaki K, Hamazaki T, Matsuoka Y.
PLoS One. 2012;7(4):e35248. Epub 2012 Apr 25.
ちなみに、井ノ口先生とはCREST研究「ニューロン新生の分子基盤と精神機能への影響の解明」で共同研究者になって頂いていたのだが、まさにニューロン新生(=神経新生)の研究が少しずつ社会に還元されるように進展しているのは嬉しいことだ。
先日、プレス発表を行ったStem Cell誌の内容も、神経新生に脂肪酸の運び屋である脂肪酸結合タンパク質が重要な働きをしていることを指摘したが、我々の幼若期のラットを用いた研究では、アラキドン酸というオメガ6系の必須脂肪酸が神経新生向上効果があることを見出している。
もともと成人の脳にはオメガ3系のDHAが17%程度、アラキドン酸が15%は存在しているということを考えると、その人それぞれの食事パターンに合わせて、もし不足している不飽和脂肪酸があれば、それを補うのが効果的なのではないかと思う。
【関連リンク】
プレスリリース:生後の脳で新生する神経細胞の数を適切に調整する仕組み
プレスリリース:アラキドン酸が神経新生促進と精神疾患予防に役立つ可能性を発見
プレスリリース:胎児期の不飽和脂肪酸代謝不全を示唆する統合失調症の遺伝子を発見