「エコ」って何?
2012年 06月 13日
「究極のエコカー」と言われる電気自動車は、確かに車からCO2は排出されないが、そのエネルギー源である電力を得るのには火力発電も使われている。
北京出張の日の朝日新聞朝刊『波聞風問』からの書き写しで恐縮だが
「石油連盟によると、リーフ(日産の電気自動車)が100キロ走って排出するCO2量は従来の電源構成では5.1キログラムだが火力発電だけなら7.6キロに増える。それでもトヨタ自動車のハイブリッド車「プリウス」並だ。」
という。
ここには計算されていないが、電気自動車のバッテリーを作ったり、廃棄したりする際のCO2換算はどのくらいなのだろう?
リッター7km程度しか走れないマツダのロードスターに乗っている分際で何を言うか、とも思えるが、私のクルマはすでに15年以上乗り続けているから、長く物を使うという意味では「エコ」に貢献しているのではないか?
日本語の「エコ」がいつ頃から定着したのか記憶に無いが、ecologyとeconomy の両方のニュアンスが、何でも省略したがる日本語の気分に合っていたのだろう(「エコチル」なんていう使われ方もある)。
英語のecologyとは本来「環境」を意味していて、それが「ecology conscious」、つまり「環境問題を考慮しています」という意味で使われるようになった。
今の日本語では「エコ」は、economyよりはecologyの意味が強い。
「地球に優しく!」などと言われるが、そもそも、人間は他の霊長類から分岐した時点で、すでに地球に優しくない「非エコ」だったと考えられる。
自動車ができて突然「非エコ」になったのではなく、石炭を燃料として使い始めたときよりも、治水を行うようになったときよりも、プロメテウスが神様から火を盗んだ神話の時代よりも、もっと遡ると考えられる。
「農業」だってなんとなく「エコ」なイメージがあるが、人間が自分に都合の良い作物のみを意図的に栽培し始めたことも「環境への介入」だ。
他の肉食動物が仕留めた獲物のおこぼれに預っていたのが、石器や石斧をつくりだし、狩りをするようになったことだって、自分よりずっとカラダの大きな、食べがいのある動物を殺して食料にするというのは、一般的には自然界の掟に反している。
つまり「非エコ」とは、地球環境に介入することと広く捉えられる訳なのだが、しかしながら、そのような生態系や地球環境への介入こそが、現生人類を人間たらしめてきた原動力である。
火は体毛を失った身体を温め、調理によって食べ物を消化しやすくした。
ジャイアントパンダが(実は食肉目だが)、一日中ササを食べないと、100キロを超える身体を保つエネルギーを得ることができないのに対して、人間は食べること以外の余分な時間を考えることに費やすことができる。
火は、その周りに集まった人々の間にコミュニケーションを生み出し、踊りや歌が生まれ、そしてやがて言葉が紡ぎだされたのかもしれない。
そうして人間は、環境への介入のやり方を容易に仲間に伝え、次世代にも伝えることができるようになり、さらには文字として時間や空間を超えてのコミュニケーションも可能にした。
現生人類が生まれてからの変化を「進化」と呼ぶかどうかは別として、人間は明らかに、その棲む環境を変えてきた(そして、もしかすると、そうやって徐々に変わってきつつあるのかもしれない)。
家を建て、城塞を築き、道を造ることによって、雨露をしのいだり、外敵から身を守ったり、遠くまで旅をすることができるようになった。
人間の歴史がひたすら「快適さ」を追求したものであることは、今世紀のはじめなら携帯電話やウォシュレットに象徴されるだろう(これから半世紀後に、どのようになっているのかは想像もつかない)。
そして、そのような快適さが、王様や将軍やその身近な人々だけのものではなく、より多くの人達に行き渡るようになっていくのが豊かさである。
道は舗装され、階段はエスカレータやエレベータになり、お年寄りや車椅子の方でも自由に活動できるのが理想形だ。
じゃぁ、すべての階段がエスカレータになったら、それはどのくらい電力を余分に使うのだろう?
その設置にどのくらいの資源を使うのだろう?
とすると「バリアフリー化」というのは、ある意味で究極に「非エコ」の方向を向いていることになってしまう。
私が「エコ」を胡散臭く思うのは、そんな理由からだ。
「エコ」という旗印は、それをビジネスチャンスにするための符牒、くらいに思っていた方が良い。
たぶん、「エコ」ではなくって「サステナブル(持続可能)」というキーワードで考えるべきなのだろうが、きっと「サステ」くらいの省略形が市民権を得られないと、日本では定着しないのかもしれない。