『ビヨンド・エジソン』にみる12人のロール・モデル【加筆しました】
2012年 09月 23日
『絶対音感』を読んだのが大学生になってからだったが、その本によって「自分はどこか変なのではないか?」という不安を解消できたのは有難かった。
受験勉強をする友人たちは、皆、Walkman(←懐かしい)で音楽を聴きながらできるのに、なぜ自分にはそれができないのか困っていたところに答えをもらった気がした。
その後、『青いバラ』『星新一』は読む機会が無いままに本書に辿り着き、淡々とした語り口を思い出した。
本書執筆のきっかけは、最相氏自身が理系進学をしたものの科学者という道を歩まなかったことについて、現役の科学者を理解することによって考えてみたいということであったという。
例えば「科学者になるために、エジソンの伝記がきっかけだった人はいるのだろうか?」というような問いかけだ。
そのアプローチ自体がかなり科学的だと思える。
本書に取り上げられているのは男性6名、女性6名の科学者だ。
その専門分野は多岐にわたるので、ここに掲げておこう。
北潔(寄生虫学)
佐藤たまき(古生物学)
坪充(農業気象学)
石田瑞穂(地質学)
深沢倫子(物理学)
峯松信明(音声工学)
甲斐知恵子(ウイルス学)
岩坂泰信(物理学)
中小路久美代(情報科学)
徳永万喜洋(生物物理学)
矢野創(宇宙科学)
星美奈子(脳神経科学)
実際、最相氏が取材した12名の中で小学校くらいで「伝記の全集」を読み通した方が複数おられた。
(私も小学校の図書館から借りてきては読んでコンプリートさせたことを思い出す)
それぞれ、誰の伝記を挙げているかは本を読んでのお楽しみとするとして、本書が2009年に単行本として出版された後に、2012年3月に文庫化されたことは、ポプラ社さんのご英断として拍手を送りたい。
『ビヨンド・エジソン』(最相葉月著、ポプラ社)
これまでにも、多数の科学者の伝記は出版されているのだが、その多くが絶版となっているのだ。
これは、科学者のロール・モデルの欠如につながっていると思う。
「女性科学者といえばキューリー夫人」的な状態から抜け出せていないのが日本の現状だ。
最相氏が男女同数の科学者を取り上げたことは、将来、そういう世界になっていてほしいと願う気持ちの表れと思う(そのようにはどこにも書いていないのが、クールな筆者らしいと感じる)。
以下長くなるが、本を読んだ自分の気持ちを残すために、直接の知合いの中小路さんと、中身が非常に興味深かった峯松博士のことを取り上げておく。
中小路さんは現在、東大先端硏の特任教授で、数年前に科学技術関係の委員会でご一緒していた。
(そういえば最近、あまりお目にかかっていない)
小柄な体にバイタリティ溢れた魅力的な方だった。
こういう業界では比較的珍しいかもしれないのだが、「仕事がデキる女性」風のスーツがよく似あってらした。
たぶん同年代と思う、しかも直接存じ上げている方の「伝記」を読むのは、ちょっとドキドキする。
関西の伝統ある女子高、つまり、いわゆる「お嬢さん学校」のご出身ながら「理系の皆が医学部に行くなら、自分は違う分野を目指す」という気持ちが、すでに独創性を狙う科学者の素質を表しているのだろう。
ストレートに大学院進学したのではなく最初は民間企業に就職したことも、この業界では珍しいかもしれない。
専門は人間とコンピュータのインターフェースの開発という。
会社からの出向でコロラド大学に留学中、お母様の病状が悪くなった時期がちょうど博士論文作成の頃に当たり「いつでも日本に帰れるように」実質4、5ヶ月で書きあげたというが、これも、「母親が具合が悪いので論文作成を後回しにする、というタイプではない」人こそが優秀な科学者になるという例といえる。
そんな中、阪神淡路大震災が生じ、ご実家が被災され、帰国となった。
『……故郷の崩壊は、そこで生まれ育ったすべての人にとって、かけがえのない日々の記憶の崩壊でもあった。』という筆者のコメントは、約1年半前に東日本大地震により震度6強を体験した身に染み入る言葉だ。
私は仙台に来て14年余だが、ふるさとの街並みを失った方にとっては、どれほどの痛みなのか、想像もできない。
床が食器や本で足の踏み場も無かった光景は私にとっては「消したい記憶」であり、引っ越すことによって心の平穏を取り戻すことができたが、そういうことが困難な方がまだどれほどおられるだろうか。
……おっと、話が個人的な方に逸れてしまった。
エピソードの終わりの方に、「PowerPointの功罪」の話が出てくる。
これは、私も委員会の折だったか、終わってランチをご一緒したときのことだったか、中小路さんが仰っていたことなのだが「PowerPointによって、人間の思考パターンが規定されてしまうのは大きな問題」ということ。
例えば、箇条書きが7行以上になると、勝手にフォントが小さくなるとか、予め決められた配色があるなど、そういう小さなことでも積み重なって、人間の創造力に影響があるのではないか。
ソフトウエアに合わせて人間も変化する……。
久しぶりに中小路さんに会ってみたくなった。
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もう一人の峯松信明博士は、影響を与えた本としてテンプル・グランディンの『動物感覚』を挙げていたことに興味を持った。
グランディンは高機能自閉症(もしくはアスペルガー症候群)だが、コロラド州立大学で研究を行い、「畜産動物取扱システム会社」の社長も務めている。
峯松博士が自閉症に興味を抱いたきっかけは、音声工学者として音の認識の相対性と絶対性に興味を持ったからだった。
自閉症の方は、いわば究極の「絶対音感」のような感覚で音を捉えてしまうので、相対的な「抽象化」ができず、例えばお父さんの「おはよう」とお母さんの「おはよう」は違って聞こえているという。
確かに、音の高さも音質も異なる声だが、いわゆる健常者はその中から「おはよう」というエッセンスや意味を容易に読み取ることができ、だからこそ「ニュアンスの違い」も意識することが可能だ。
逆に、自閉症の方はオウムそっくりの「音真似」が得意であり、例えばTVコマーシャルのフレーズなどを真似るのが好きだったりするが、それは常に「一定の」音であるから真似やすいのだという。
実は峯松博士は、自閉症よりも先に、その逆パターンを想定したのだった。
それは、「音の流れを全体としてとらえる傾向が強すぎて『おはよう』を『お』『は』『よ』『う』という音韻の列として詠懐することが非常に困難ーすなわち文字言語をうまく使えない人々」だ。
こういう人々は実際にいて「ディスレクシア(読字障害)」と呼ばれる。
必ずしも知能が低い訳ではなく、音声言語は流暢で、そういえば、数年前のノーベル賞受賞者のエリザベス・ブラックバーンもディスレクシアだったかと記憶している。
ディスレクシアは日本では少なく欧米で多いのは、漢字を使うからかと思っていたが、そういう音声認知の問題があったのか。
音楽の場合は、音にラベルが付けられない相対音感者であっても、音楽は問題なく楽しめるのに、言葉の場合にはそれが読字障害として問題になる、ということを峯松博士は指摘している。
峯松博士は将来、自閉症の方にお父さんの「おはよう」とお母さんの「おはよう」が、違う音ながら同じととらえる情報処理システムを開発できないかと考えている。
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最相葉月さんにも会ってみたいと強く思った。
女性でノンフィクション作家というのはかなりレアだし。
昨日、というか今日の夜中にこのエントリーをアップして、さっそくに読んで下さった方が、峯松博士は同級生です、とFacebook経由でお知らせ下さった。
世の中はそんな風にも広く繋がるようになっている。
【関連リンク】
拙ブログ:梅の季節に:ロールモデルはキュリー夫人だけじゃない
拙ブログ:柳沢発言とリタ・ レヴィ=モンタルチーニ