野家先生の最終講義
2013年 03月 02日

最終講義もそれぞれ、あちこちで開催されていますが、本日は大ファンの野家啓一先生の最終講義が川内キャンパスB200号室で開催されました。
全国からもご関係の方々が集まられたようで、教室は立ち見も出るほどの盛況でした。
なんとタイトルは「無題(untitled)」だなんて、カッコイイ!
司会をされたのは門下の直江清隆先生。
野家先生のご専門は科学哲学ですが、東北大学でご一緒した仕事は男女共同参画関係でした。
当時、副学長から理事として男女共同参画が所掌ミッションであったのですが、私としてはなんといっても東北大学図書館長であったことがもっともリスペクトしている点かもしれません。
最高学府の図書館の長というのは、もっとも「智」を治めている象徴だと思います。
野家先生はもともとは東北大学理学部の物理を専攻されたのですが、その後、哲学の道に進まれました。
冒頭で言われた、科学が未知の世界を水平的に広げるのに対し、哲学は既知のことがらを垂直に深化させるものである、という捉え方は、両方をご存知の先生ならではの鋭い比較だと思います。
イントロでは、半年前に最終講義の題目を求められて「無題」と伝えておられたこと、学生のレポートには「タイトルを必ず書くように」と伝えていて、それに対して「無題」というタイトルのレポートがあったら満点にしようと思っていたが、ついにそういう学生はいなかったこと、などの軽いエピソードが語られました。
本題では、そもそも「タイトルとは」というところから始まって、芸術の世界における「タイトル」が、「作品」という<主語>を説明する<術語>の関係になっている、という議論を展開されました。
そこから、話は<主語>の方に移り、日本語の<主語>は<主題>であることや、<主語>を<述語化>するクワインの存在論などに展開していき、巡り巡って、最後は先生が主張される「物語論」へと繋がりました。
知覚的事物への指示連関の強弱に応じて、各種対象は「存在濃度」をもつ。ただし、濃度の違いは程度「degree」の差であって、種類(kind)の差ではない。
このメッセージは、私にはすとんと腑に落ちました。
すべての存在は虚実入り交じったアマルガムであるという捉え方は、自分の感覚に近いものです。
終始、面白い喩えやジョークを織り込まれつつの講義で、最後のスライドでは、結局、非常に若い頃から「物語論」の萌芽があったこと、それに回帰していることを話された後、一番最後に、晩唐の詩人である李商隠の詩を挙げておられました(画像参照)。
出典は以下になります。
登樂遊原
向晩意不適,
驅車登古原。
夕陽無限好,
只是近黄昏。
このブログを書くためにWiki先生に訊いてみると、李商隠もまた「無題」の律詩を多数書いており、野家先生がご自分の最終講義に「無題」という題目を付けられたのは、その場の思いつきではないことがよくよくわかりました。
本日の最終講義に集まられた関係者の方々は、講義の後に、国分町でさらに議論を続けられたことと思います。
野家先生は、4月からは総長特命教授として、教養での講義に当たられるとのこと。
(なので、実は本当の意味での最終講義ではなかったのでした!)
またいつか、自由意志のお話などしてみたいです。
野家先生、どうぞお元気で!
