昔の記憶
2005年 09月 28日
小学校低学年までのもので思い出せるのは、よく遊んだおもちゃくらいだ。
表に平仮名の「り」と書いてあって、裏には林檎の絵が付いている類の、子供に文字を覚えさせるための木の札や、子供向きのはっきりとした色で塗られた積み木、52色のクレヨン、タミーちゃんという人形(世代的にはリカちゃんでもおかしくないのだが、小学校の頃には人形遊びを卒業していたからだと思う)、三匹の子豚の英語のソノシート、ピーターパンのお話のレコード(その中の音楽とともに)、などなど・・・
皆、画像や音声の記憶なので、やたらメモリを食っているせいで、「こんなことがあった」「あんなことをした」というエピソードのテキスト記憶がストアされていないのではないかと勝手に解釈している。
写真に残っているものは、それを何度か見返しているからしっかりとした記憶に定着しているのだろうか?
だとすると、親がビデオで子供の記録を取って、子供がそれを何度も小さいときから見続けていると、その記憶はどんどん強化されるかもしれない。
そういうところにメモリを使ってしまって良いのだろうか?
記憶の追体験ではなく、本当はもっと他のことに使った方がよいのでは、などと心配してしまう。
今日は「言語科学の百科事典」の原稿の最後の項目「脳の進化と分子進化(仮)」について書いた。
折しも先日Natureでチンパンジーゲノム特集号が出たこともあり、アップデートした内容にできたのが有り難い。
今回は「書き下ろし」の部分が多かったので、文章の体裁を整える前に、まず助手のN君に読んでもらうつもり。
先日たまたま見つけたサイトで、レポート作成だったか何だったか、今そのサイトを探そうとして30分悪戦苦闘したが見つからなかったので思い出せないが、とにかく、文章作成プロセスを進めるコツのようなことを書いてある記事に、「6割できたらまず人に見せる」ということが書いてあり、ああ、自分と同じやり方だと思った。
これも何かの本に書いてあったのだが、作品を最後1割完成させるのに必要なエネルギーは全体の6割を作りあげるよりも大きい、とのこと。
だから、6割でも7割でもいいが、そのくらいのところで一度誰かに見てもらう方が、「自分としてはこれで完璧(限界)」というところまでもっていってからガラガラと直されるよりも効率の良い進め方になるのだ。
そこのところを分かっていない学生が多い。
明日は歯科基礎医学会のサテライトシンポジウムで神経堤細胞についてのトークをする予定。
夕方、今度アメリカで独立する内田直滋さんが来仙することになっている。