支倉常長はローマ市民だった!
2013年 11月 04日
支倉常長(はせくらつねなが)が帆船サン・ファン・バウティスタ号で月の浦(現在の石巻市)を出帆したのが、ちょうど400年前の10月28日。
この遣欧使節は、エスパーニャ(現スペイン)人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を正使とし、支倉常長を副使として、欧州との通商を目的として送られました(Wikipediaでは正使と副使が逆になっています)。
船はまず黒潮と偏西風を利用して北米西海岸に到着し、そこから南下してメキシコに向かいました。
180名もの一行は、さらにその後、日本人として初めて大西洋を渡り、スペインに到着。
ソテロの故郷であるセビリアで歓待を受けた後、マドリッドに入りますが、そこで8ヶ月の足止めをくらいます。
その背景には、家康が欧州諸国との通商はしたいが、キリスト教の布教はやはり認められないという方針を強くしたこと、あるいはフランシスコ会と他の教派との確執などがあったようです。
ともあれ、無事にローマに到着した遣欧使節一行は、伊達政宗からの親書をローマ教皇パウロ5世に渡すことができ、ローマ滞在中に支倉常長を含む使節の中の8名は、なんとローマの公民権を授与されました!
ちなみに支倉常長のローマ市民としての名前は、DON PHILIPPO FRANCISCO FAXECVRA ROCVYEMON(ドン・フィリッポ・フランシスコ・ファセクラ・ロクエモン)と言います。
「U」の発音に「V」を使うところがBVLGARIみたいですねww
展示品の中には、今年の6月にユネスコの世界記憶遺産として登録された3点として、支倉常長像、ローマ教皇パウロ5世像、そしてこの公民権証書(いずれも国宝、仙台市博物館蔵)とともに、スペインやイタリアに残る伊達政宗や支倉常長からの書状、日本から贈られた美しい象眼を施した聖遺物を入れていたという箱などの品々がありました。
スペインからは94点が世界記憶遺産として登録されています。
残念ながらローマ教皇は伊達政宗への返書をスペイン国王に一任し、支倉常長はそれを直接受け取ることはできずとりあえずスペインに戻り、さらにマニラへと戻ります。
帰国した日本は、すでにキリシタン弾圧の世の中になっていて、支倉家でも家臣にキリスト教信者がいたことから、一時はお家おとりつぶしになったと言います。
今回、歴史を学ぶという意味では、支倉常長にローマ市民権が与えられていたことや、仙台の地に全国各地からのキリシタンが逃れて来ていた時代もあるということを初めて知りました。
里見総長になって「ワールドクラスへの飛躍」をキーワードにする東北大学も、400年前の仙台がとても世界に開かれていた地であることをアピールすべきと感じました。
個人的には、支倉常長像として描かれている白い衣装の絵画の現物が見られたことに感激でした(末尾参照)。
なんと、イタリアの個人蔵とのことです……。
【関連リンク】
日本スペイン交流400周年公式サイト
在スペイン特命全権大使のサイト:皇太子殿下のスペイン御訪問~日本スペイン交流400周年の開幕~(上記記念事業に関連して皇太子殿下のスペインご訪問の様子が多数の写真入りで掲載されています。スペイン国王主催晩餐会のスピーチ後半をスペイン語で話されたというのは素晴らしいことだと思います。)
朝日新聞デジタル:世界記憶遺産に御堂関白記と慶長遣欧使節資料 ユネスコ
メディア 猫の目 情報:2013/10/04~11/17 仙台市博物館特別展「伊達政宗の夢-慶長遣欧使節と南蛮文化」(画像が多数掲載されていますのでご参考まで)
公式HPより見どころ