8年前の自分

今朝、遺伝研の「新分野」の新しいラボを作るための3スパンのスペースを見学させてもらった。
さらにシークエンサー(塩基配列解析装置)、2光子顕微鏡、電子顕微鏡等の共通機器を見学。

何もない実験室を見て、8年前の自分を思い出した。
ちょうど11月1日着任だったのだが、その時点ではまだ自分の居場所はなかった。
翌年3月にプレハブの実験棟が建つ予定になっていて、そこに実験スペースを頂ける約束だった。
そことは別にオフィス用に2部屋使わせて頂けることになっていた。
自分で研究室のレイアウトをするということにワクワクしたものだ。

人事はもちろん8年前よりも前に始まっていた訳で、最初にそんな話を伺ったのは9年以上前になる。
当時は東北大学大学院医学系研究科の教授人事は公募ではなかったので、ある方が声を掛けて下さったのだが、その先生とは面識がなかった。
勿論、有名な方なので、私の方は存じ上げていたが、先方が私を認知されているとは思わなかったので、お話を頂いたときはびっくりした。
大学院4年+助手8年を医科歯科大学で過ごした後、国立精神・神経センター神経研究所の室長で異動して間もない頃であったので、「まだ移ったばかりだし・・・」とは思ったが、「どうぞ進めて下さい」とお答えした。
「他にも候補者がいますので、最終的にどうなるか、まだしばらく時間がかかりますが、それでもよいですか?」と訊かれ、別に失うものは何もないので「構いません」と返事をした。

その頃、東北大学の医学部は「大学院重点化」を進めているところで、「教授1、助教授or講師1、助手2」というそれまでの分野(研究室の単位)を解体し、「1,1,1」という小さなラボを多くして、教授の数を増やすという方針のもとに重点化が進行していた。
私のポジションは、旧解剖系を再編して「器官構築学」という名前が仮に与えられていた。
「発生生物学」という名前になった解剖系のお部屋もあるのだが、「発生系の分野で行こう」と選考委員会の方針に沿う形で、俎の上に載せて頂いたのだと思う。
もし、重点化前の伝統ある大きなラボのPIということで人選されていたら、私にお声がかかったかは分からなかったのではとも思う。
とにかく、そのオファーをして下さった先生には心から感謝している。

そのとき、どなたが他の候補者だったのか私は知らない(こういうことは普通あえて知らない方がよいかもしれない)。
また、選考委員会でどのような議論が為されたのかも私の耳には入ってこない。
しかし、結果として私が東北大学医学部初の女性教授になったということから、「まあ、女性でもよい」と判断して頂いたことは間違いない。
(年齢的にも若かったが、それはすでにいくつかの前例があったようなので、あまり大きな問題ではなかっただろう)

思えば、助手に採用されたときも、当時のボスが「まあ、大隅でもよい」と考えられたからだ。
最初そのポジションは、2つ先輩の男性にどうかとお声がかかったのだが、彼はお父様の歯科医院を手伝うために断られた。
そのとき、元ボスが「女性は駄目だ」と思ったら今日の私はいなかった。
まあ、大学院4年間指導してきて、信頼関係はあるから、うるさい奴だが大丈夫だろうというような決断だったのではあるまいか。

その元ボスは大学院受験の面接のとき「大隅君、女性は男性の2倍業績があって初めて対等に扱ってもらえるのだから、覚悟した方がよい」と、現在ならセクハラ委員会に訴えられるようなアドバイスをして下さった。
(ちなみに、私より10歳年上の女性の先生たちは「5倍」と言われ、20年上の先生方は「10倍」と言われたらしい。現在そんなことを言う方は(少なくとも表向いては)おられないだろうから、この40年くらいの間に着実に変わったとは言える)
「ハイ」と答えながら、心の中で「コンチクショー、物理的に考えて2倍は無理だ。1.5倍ならなんとかなるかもしれないけど・・・」と思った。
でも、このような厳しいおコトバは、「じゃあ、とにかく年2回の学会発表と年1報以上の論文発表を目指そう!」という目標につながり、その累積として今の自分があるのだから、有り難いものだったというべきかもしれない。

・・・そんなことを殺風景な実験室の壁を見ながら思い出していた。
by osumi1128 | 2005-10-19 22:05

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