過日、「小中学生向けに研究不正についての解説」というテーマで某紙の取材を受けました。
いろいろと説明している間に、「そもそも小中学生には<論文>がどんなものかわからないので、そこからお願いします」ということになって、それなら拙ブログにもきちんと書いておこうと考えた次第。
「論文不正はあかん!」という話を研究指導者がする際にも、ちょっと役立つ小ネタかなと……。
「論文」は科学者にとっての大事な「作品」です。
だからこそ、丹精込めて心を込めてつくりあげなければならないのです。
【<論文>というスタイルの確立】
17世紀に顕微鏡を開発したアントニ・ファン・レーウェンフックAntonie van Leeuwenhoekは、観察した微生物のスケッチをロンドン王立協会に書簡として送っていました。
今でもNatureやScienceにLetterという形式があるのは、その名残ですね。
やがて、同好の士が集まって「学会society」が形成され、学会が独自に「学会誌journal」を発行するようになります。
生命科学分野ではだいたい20世紀のはじめくらいまで、論文のスタイルは次のようになっていました。
タイトル(「ヒトの脳の発生についての組織学的研究」などという短いもの)
著者(けっこう単名が多い)
序論
材料・方法
結果
考察
要旨
「序論」では、その研究の「背景」と、何が「わかっていないか」、研究の「目的」などが語られます。
そして、その目的に適した「材料・方法」が選ばれ、実験を行った結果が述べられた後に、それについて考察し、最後に全体をまとめた要旨が付随する、というスタイルです。
ところが「要旨が先にあった方が内容が簡単にわかるよね」ということになって、順番が変わってきました。
タイトルも、以前は中身を読んでみないと中身がわからないものだったのが、もっとも論文の内容を短く表すものに変わります。
また「材料・方法」も、その研究手法を取り入れたい・再現したい研究者にしか必要ない情報だから、途中に入れなくても良いじゃない、という扱いになる雑誌もありました。
タイトル(キーワードが盛り込まれたもの)
著者(だんだん数が増えていく傾向に)
要旨
結果
考察
材料・方法
雑誌によっては誌面の都合上、字数制限が厳しく、材料・方法は現在「詳しくはラボのHPを参照」というような場合も多々あります。
STAP細胞論文の場合を見てみましょう。
タイトルは
Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency.
というものですね。
キーワードである「刺激stimulus」や「運命転換fate conversion」、「多能性pluripotency」が盛り込まれていて、ワクワクしますね。
もう1本の論文では
Bidirectional developmental potential in reprogrammed cells with acquired pluripotency.
というものになっています。
こちらも「二方向性の発生の可能性bidirectional developmental potential」「リプログラムreprogrammed」「獲得された多能性acquired pluripotency」などのキーワードから構成されています。
さりげなくこっちにも「獲得された」という用語が入っていて、「選別されたのではない」ことを強調しようとしています。
最近では、要旨の他に3〜4センテンスの結果のダイジェストを載せたりする雑誌もありますし、Natureの場合にはweb上では結果や考察の部分のサブタイトルをまとめて載せることにより、論文全体のストーリーが「なるべく早く」わかるようにしています。
この「わかりやすさ」を短絡的に求める風潮は、必ずしも科学の世界だけではない、現代社会における共通した問題点ではないか、ということを指摘しておきたいと思います。
【投稿された論文は専門家によって査読される】
かつて論文の原稿manuscriptは、A4やレターサイズの紙にタイプされて、ケント紙に貼った図表とともに、3セットか4セットが郵送で投稿submitされいました(40代以降の研究者であれば、中央郵便局まで走って持っていったという経験もあるのでは?)。
現在ではそのようなフォーマットに整えられた原稿のファイル(図表、動画なども)は、雑誌の編集部オンラインで投稿した後、編集者editorが指定する査読者reviewersによって審査されます。
レビューワーは論文を精査し、論旨はデータによって十分に支えられているか、論理の飛躍はないか、考察でオーバーな解釈は為されていないかなどを評価し、その内容をエディターに伝えます。
エディターは複数のレビューワーのコメントを複合的に判断することにより「改訂revise」して再投稿せよ、もしくは「不採択reject」(号泣)と決定し、「査読コメント」とともに投稿した著者に戻されます。
リバイス可能であった場合には、さらに追加の実験データを取らなければならない場合(major revison)もあれば(泣)、本文の書きなおしだけで済む(minor revision)の場合もあります。
もちろん最初の投稿で「素晴らしい」という高評価を受けることもありますが、大御所の方でないと?結構な確率で駄目だしをくらうことが多いですね……。
エディターは、学会のオフィシャル・ジャーナルでは、現役の研究者だったり、リタイアされた教授だったりですが、Natureのような商業誌では、研究経験のある方が専任で働いています。
レビューワーは、「匿名」で査読する(peer review)するのが一般的なので、「辛口」や「超辛口」のコメントをすることもしばしばです。
(ごく最近、名前を出して査読をするシステムの雑誌も出てくるようになりました。このことにより、行き過ぎた批判精神を改善する効果が期待されています)
何度かリバイスのやりとりをしたり、雑誌を変えたりすると、最初の投稿から2年、3年ということも多々あります。
なので、研究者としてやっていくための資質の一つは「諦めない」こと、精神的にタフであることだと私は思っていますが、大学院生にとって最初の論文までの道のりが長すぎるのは問題であろうと考えます。
NatureのSTAP論文はArticleもLetterも
Received Accepted Published online
と示されていますから、3月の最初の投稿の後に追加の実験が為されたものと思われます。
(雑誌によっては、リバイスした日付が情報として示される場合もあります)
【本来は学会発表の後に論文発表】
さて、学会という組織ができてからは、例えば年に1回「大会meeting」などが開かれて(仲間内では、このmeetingのことを学会と呼ぶこともあります)、その分野の研究者が会って互いに顔を合わせて、研究成果の発表に対して意見を戦わせるというステップを経て、さらにその批判やアドバイスに対応してブラッシュアップしてから論文として発表するのが一般的でした。
ところが、最近では、主に特許申請の関係から、学会発表はせずにぎりぎりまで密かに論文を作成して、先に論文発表したものを学会でも発表する、という方も増えてきました。
今回のSTAP細胞論文の場合も、学会発表はされていなかったと聞いています。
もし、STAP細胞論文が先に学会発表されていたら、まずは「それは(本当だったら)すごい、面白い!」として、発表を聴いた多数の研究者がさっそく実験を開始していたことでしょう。
そして、もしかしたら「再現性無いね」ということも、数カ月の間に徐々に幹細胞業界の間に知れ渡っていたと思います。
そうなると、普通は論文原稿の内容をよく理解できる同じ業界の専門家が論文の査読reviewを行うので、論文として投稿されても最初から注意深く査読されたかもしれません。
(まぁ、今「もし」を言っても仕方ないことなのですが……)
ともあれ、学会発表よりも論文発表が先になることが多い生命科学関係の論文には、このような問題が生じやすい背景があるのです。
ちなみに、生命科学分野では、学会発表自体のハードルは低いと思います。
それは、他の分野で行われるように、数頁にわたるプロシーディングスproceedingsを書く必要はなく(ここにどれだけコピペがあるのかは知りません)、英語で数百wordsの抄録abstractのみ、図表も無し。
なので、よっぽどのことがなければ、発表できることになっています。
だからこそ、学会発表でお試しをして、さらに揉んでもらってから論文、という順序であった訳です。
【現在、論文発表は研究者の業績評価でもっとも重要視されている】
小説の世界では、多作な方も寡作な方もいますが、代表作が1つでもあれば、あぁ、あの作家ですね、とわかるでしょう(それで生活できるだけの印税等の取得になるのかは不案内ですが)。
科学の世界では、たった1本の論文だけで、その科学者が素晴らしいと判断されることは無いと思います。
(その意味において、今回のNature2本の論文発表後に、拙ブログでポジティブなエントリーをしたことは、私がずっと行ってきた「リケジョ倍増計画」を推進したいという下心によるものであり、深く反省する次第です……)
科学者としての業績は、複数の論文の積み重ねにより、その人なりの世界を構築してはじめて理解されるものです。
したがって、数が多ければ良いと言うつもりはありませんが、論文として発表される作品の質と量が研究者の評価の対象になります。
就職の際には履歴書とともに「論文リスト」を提出しますが、研究費を申請する際にも業績リストが評価されます。
したがって、研究者はそのキャリアの間中、論文を書き続けるのです。
よく、うちのラボを訪問してくる大学院生志望者に「研究者ってどんなことをしている人だと思う?」と訊くと、「実験をする人」という答えが返って来ますが、「うーん、実験するのは実験補助者の人もそうだよね?」と言って「論文を書く人が研究者ですよ」と言うと、わかったようなわからないような顔をしています。
たぶん、学部生にはまだ「論文を書く」という経験が無いからかもしれませんが、学位を取った後でも「実験が楽しい(でも論文書くのは嫌い)」という人は、後々、研究者としてのキャリアを続けるのは難しいかもしれません。
【論文発表は通過点である】
無事に世の中に論文が出たとしても、その成果の上に次の研究を進める必要があれば、必然的にそのデータや発見の再現性を取ることになりますし、もし他の研究者も面白いと思えば、さらに他の研究室でも再現性を取る実験が為されるでしょう。
そうやって、新たな発見は徐々に確かなものとして定着していくことになります。
ですので、1、2本の論文が出たからといって、「まだまだ本当」かどうかはわからない、というのが科学の世界です。
なので、それをあたかも「決定的」のような科学報道に繋げることは大きな問題といえるでしょう。
「100年、200年経っても変わらない真理」であれば、その報道のために一刻、一日、一週間を争う必要はなく、数年にわたって経過を見届けることが大事なのではと思いますが、まぁ、これはそれぞれの業界で仕方のないことかもしれませんね。
【論文の取り下げは著者が行う】
現状において、論文の中に間違いが見つかった場合、その論文の取り下げretractionや訂正correction(erratum)は、著者全員の合意もしくは責任著者の判断により編集部に申し入れがあり、編集長や出版社と協議の上それを認めて、ジャーナルの紙面やwebでそれが告知されます。
個人的には、雑誌の方針は「性善説」にもとづいていて、故意にであれそうでない場合であれ、不正が為された場合の対応には適していないように感じます。
冒頭にも書きましたが、論文は研究者の大事な「作品」なので、テストを受けるのとは異なります。
決められた時間内にどれだけ点数を取るか、ではなくて、自分の意志でどれだけ完成度を高めるか、という価値観が必要です。
もちろん、学位取得のリミットであったり、ポスドクの採用期限であったり、種々の時間的な制約はある中でのことですから、現実にはどこかに妥協点を求めなければならないのですが、「やっつけ」で行う仕事ではありません。
なので、時間もかかり、まだるっこしいところも多々あります。
科学の世界は、そういうのが嫌いな方には向いていない業界ともいえます。
むしろ近いのはスティーブ・ジョブズが言った有名な言葉です。
Stay hungry, stay foolish.
あるいはこんなエッセイもあります。
2008年にJ Cell Scienceという雑誌に掲載されたものですが、状況は今でも同じと思います。
次のエントリーくらいで、もう少し科学不正について考えることを記せたらと思っています。