紀元2世紀:プトレマイオス(天文学)
17世紀初期:ガリレオ(物理学)
17〜18世紀:ニュートン(近代物理学)
18世紀:ベルヌーイ(数学)
19世紀:ドルトン(化学)、メンデル(遺伝学)、ダーウィン(進化学)
20世紀:バート(心理学)、野口英世(細菌学)
これまでの伝統的な科学観によれば、科学とは精密な論理のプロセスであり、客観性こそ科学研究に対する基本的な態度である。科学における主張は、綿密な検証と追試(再実験)によって厳格にチェックされる。こうした自己検証的な科学のシステムによって、あらゆる種類の誤りはすみやかに容赦なく排除される。
イラク出身のエリアス・A・K・アルサブティは、17歳でバスラ医科大学に入学し、「ある種のがんの検出に有効な検査法を開発した」ことを政府に伝え、政府はよく調べもせずにアルサブティをバグダット医科大学の5年次に入学させて研究資金を与え研究施設を作らせた。がんの検査法開発は実際には芳しい成果とはならず、代わりに労働者のがん検診を行って金を稼いだ。社会主義国家においてこのような金稼ぎが問題となったときには、すでにアルサブティは国外逃亡。ヨルダンのハッサン皇太子に近づき、フセイン国王医学センターでの研究を認めさせた。さらにヨルダン政府に依頼して米国派遣。アルサブティが参画したのはテンプル大学の微生物学者ハーマン・フリードマンの研究室だった。まずは無給のボランティアとして仕事が与えられ、大学院課程で学んだ。この間にも新しい白血病のワクチンに関する捏造論文を書いていたが、ともあれ学位取得が繰り返し失敗であったために、テンプル大学は去らなければならず、次にジェファーソン医科大学のE・フレドリック・ウィーロックのもとに移った。ウィーロックはアルサブティを「ヨルダン王族の若くして才気にあふれる学生」であると信じこみ、ラボメンバーに加えた。その1万ドルの資金援助はヨルダン当局から為された。この間に、博士号を取得していないにも関わらず虚偽の身分を騙ったりしたが、ラボ内でのデータ捏造が同僚から告発され、ウィーロックはアルサブティを解雇する。ラボを去る際に研究費申請書と論文原稿を持ち出し、それらを用いて盗用の論文を「チェコスロバキアの雑誌」に発表するも、ウィーロック研のめざとい学生に発見される。その頃、アルサブティはテキサスのM・D・アンダーソン病院に異動していたが、これも、病院トップとかけあって「ヨルダン国軍の軍医総監」の紹介状を見せて、まんまとポジションを得たもの。この時代にアルサブティは論文を盗用により量産し、「無名の雑誌」(日本のものも3つあり)に送りつけて掲載を勝ち取っている。自身の所属先をヨルダン王立科学協会やイラクの私設研究室にすることにより同僚の目にふれさせず、投稿先が人目につかない雑誌であったために、盗用された方の著者もまったくわからずに論文不正の発覚には時間がかかった。アルサブティが24歳の時点で履歴書には43編の論文がリストされており、虚偽のPhDも書かれていた。アルサブティはその後も捏造論文を量産し(2年で20本程度のペース)、アメリカ・カリブ大学での学位を取得し、バージニア大学での医学研修プログラムに採用されたが、不正は最終的には発覚する。1980年には自分の論文を盗用された原著者たちが騒ぎ出し、『サイエンス』誌にも事件が掲載されたのである。