いわゆる教養教育(本学では全学教育と言う)の授業として「体と健康」という講義を医学部の先生方が受け持っていて、私は今年農学部学生さんを対象としたクラスの2コマを担当しました。ちょうど若葉の美しい川内キャンパスは、地下鉄東西線の駅からも近く、学生さんの生活は大きく変わったものと思います。本日の担当分は「女性の健康」だったのですが、全体共通の講義PowerPointを少し変えて、「男性と女性の寿命の違い」や「男性の罹りやすい病気」なども扱いました。画像は講義を行った部屋B200の裏側からのものです。
今年、初めての講義を担当される新任教員の方も読者におられるものと思います。2年ほど前に、学内の教員に配布されるブックレット(PDブックレットvol. 6『大学教員のブレークスルー』東北大学高度教養教育・学生支援機構編)用に原稿を書きましたが、そちらを転載しておきます。
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初めての授業を思い出して
大隅典子(東北大学大学院医学系研究科・教授)
学位を取得したその春から助手(当時)に採用された。「発生学の1コマ、担当して下さい」と、上司かつ大学院時代の指導教授に言われて、それまで聴講する側であった講義を行う側に立場が変わったことを認識した。準備期間は1ヶ月以上取ったと思う。当時、PowerPointは無かったので、配布プリントと板書が授業のスタイルであった。配布プリント用に、人体発生学教科書の図をいくつかコピーしたり、自分の専門に近いところについては、学会発表などで使う図を入れた。板書の部分はどこにしようかと思って悩み、なんどもコピーの裏紙などに絵を描いて練習した。
その日の授業が午前だったか午後だったか、ほとんど記憶に無い。約80名ほどの学部生たちの前に立ち、一生懸命準備したことを話し始めた。……が、開始後10分くらい経った頃からだろうか、言い様もない恐怖に襲われ始めた。学生たちは、最前列のほんの一握り以外は机に突っ伏して寝ている(私自身も、自分が学部生だった頃、とくにテニス部の朝練の後は授業中に睡眠時間を補っていたものだ)、後ろの方ではコソコソと会話をしている。きっと「この先生、ビギナーで授業、下手だよね」と思われているに違いない……。かつて、中学・高校の教員実習に訪れた教育実習生に対して「先生の教え方ではわかりません!」と言って皆で授業をボイコットしたこと(実話)がフラッシュバックする。とにかく、90分という講義の時間がどんなに長いと思ったことか。終了後、解放された私は途方もなく疲れていた。
学生たちは小学校、中学校、高等学校、大学と12年以上の授業を聴いている、いわば聴く方の専門家であり、私は当時ほんの駆け出しの教員で、まったく経験に乏しい素人だった。15分くらいの学会発表や、40分程度のセミナーはすでに行ったことがあったが、それらの聴衆は、少なくとも、私の演題や抄録を見て集まった、興味のある人々だった。対して、必修科目の講義に出席している学生は、必ずしも授業内容に興味がある訳ではなく、単位のために座っているに過ぎなかった。学生たちのテンションを高めたり、注意を促す技も知らなかったのは、初等中等教育の教員と違って、大学の教員になるのに免許は必要ないからだ。当時は「ファカルティ・ディベロップメント(FD)」も行われていなかった。
その後、授業の担当コマも徐々に増え、東北大学に着任して15年過ぎ、教員としてそれなりに一丁前になって、初めての授業のエピソードを思い出すことも無くなった。市民向けの講演や、サイエンスカフェでトークを行う機会、パネル討論で登壇することも多くなった。多数の実践を経験することにより度胸が付いて、話し始めて10分でパニックになるようなことは無くなった。その間のテクノロジーの進捗は著しく、授業のスタイルも、OHPシート(若い方は知らないかもしれない)の時期を経て、PowerPointで多数の情報を盛り込むことが多くなった。PowerPointは、講義を行う者にとっては便利なツールで、私のような生命科学・医学の分野では、PDF化された論文からクリップしたものや、教科書等をスキャンしてものなど、いろいろな画像を貼り付けることができる(クレジットを明記することは必須)。さらに動画で三次元画像やタイムラプスのデータをわかりやすく示すこともできる。
久しぶりに初めての授業のことを思い出したのは、昨年、一般向けの講演をいわゆる「TED風」で行ったときだった。TED(Technology Entertainment Design)とは、米国西海岸のモントレーが発祥で、TED Conferenceでは、さまざまな分野の講演者が12分程度の短いプレゼンテーションを行う。その内容はインターネット上で無料で動画配信されており、世界中で多数の人々が楽しんでいる1)。ピンマイクを付けて発表し、レーザーポインターも使わない。それに似たスタイルで、日本分子生物学会年会の市民向け講演が企画され、登壇者の一人になった。リハーサルもゲネプロも行うほどの念の入れよう。プロジェクトチームの方々には大変お世話になった。用意したKeynoteファイルも、何度も駄目だしされ、もっとわかりやすいシンプルなものに、もっと美しい画像にと修正された。「そんなに削ったら何も話せないじゃない……」と思ったが、結果としては良かったと思う。直前まで練習し(そんなことも何年ぶりだったか……)、スクリーンに映ったものの情報量が少ない分、聴衆(その後に動画で見るであろう視聴者も含め)に「語る」ことに意識が集中できた。
記録された映像は編集されてYouTubeにアップされている。
この講演を行うとき、普段と少し違うスタイルであったためか、直前の練習をしていたときに、久しぶりに「初めての授業」のときの緊張感を思い出した。そうして、PowerPointプレゼンテーションにより多数の講義や講演を行ってきたこの10年ほどの間に、もしかしたら自分は「語ること」の大切さをだんだん軽視してしまったのではないかと、ふと気付いた。PowerPointにしろKeynoteにしろ、教科書の絵だったり、論文のデータだったり、我々、生命科学系の研究者はつい、後ろのスクリーンに何かを映しだし、それを頼りに話をする傾向がある。話す言葉よりもむしろ、「データを見てね」「絵を見て理解してね」というところで勝負しがちだ。もちろん、同業者が多いような学会発表、研究費の審査ヒアリング等では、多数のデータを盛り込んで、「視覚的」に多くの情報を素早く伝えることが必須であることは間違いない。だが、市民向けの講演であったり学生相手の授業では、聴衆はほとんどの場合に専門家ではない。受講する側、講演を聴く側にとっては、板書の時代よりもスピードが早くなりすぎ、情報量が多くなりすぎているのではないか。つまり、せいぜいが「理解」するだけで受け身になり、主体的に「考える」時間が持てないようになってしまっているのではないだろうか。
授業などで、どんなふうに大切なことを伝えるのかは、「聴覚的」な、いわば時間のかかる伝達方法も重要なのではないか、と気づいた。聴覚的なプレゼンテーションや授業は、いわゆる文系の先生のお得意だ。今でも草稿を用意され、そのメモを元にして「語って」伝えるスタイルで講義や講演をされる方が多い。脳科学的にみて、視覚よりも聴覚は、その情報伝達速度が遅い。だが、その間に脳の中ではさまざまな情報処理が行われ、自分脳に記憶されている事柄との照合が為されて、面白いアイディアが浮かんだりすることに繋がるのではないだろうか。だとすると、自分の行う講義においても、かつての板書のように、描きながら語り、そして学生には板書を写させながら、考えてもらう、脳を活性化してもらうことが大事なのかもしれない。これから新年度の講義の準備をするときに、一工夫してみようと思っている。上記のTED風プレゼンでは、高解像度で撮影した、自分でも思い入れのある1枚の画像をスクリーン一杯に大きく映しだし、その背景を前に聴衆に語りかけたが、ビジュアルな刺激も良かったのではないかと思う。自分自身もその画像を見ながらの気付きがあった。教員自身もいくつになっても自ら学ぶこと、その姿を見せることもまた教育であろう。