井村先生の『健康長寿のための医学』(岩波新書)

京大総長を務められた井村裕夫先生は、神戸市立医療センター中央市民病院院長や初代の総合科学技術会議議員等の要職を経られ、現在は先端医療振興財団理事長や稲盛財団の会長を務めておられる。すでに多数の医学関係の書籍を出版されているが、この2月に『健康長寿のための医学』というご高著を岩波新書として上梓された。
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井村先生は京都大学医学部卒の内科医としてのバックグラウンドから、人体の成り立ちについて広い見識を持っておられるだけでなく、「進化医学」や「先制医療」などの重要なキーワードを社会に浸透させるのに重要な役割を果たしてこられた。今回の書籍ではさらに広げて「ライフコース・ヘルスケア」という概念を提唱されている。年をとってからの病気を予防する上では、成人期からではなく、青年期、あるいは胎児期まで遡ったケアが必要であるという考え方だ。

また、健康状態や疾病の発症は、その個体よりも前の世代の影響も受ける。この概念は「DOHaD仮説」(Developmental Origin of Health and Deseaseの頭文字を取ったもの)もしくは「発達プログラミング仮説」とも呼ばれ、前世紀終わりから着目されつつある(拙著『脳からみた自閉症』の中でも触れた)。第2次世界大戦時のオランダでの大飢饉の頃に胎児期を過ごした人が成人になってから、心疾患、糖尿病、高血圧やメタボリックシンドロームの発症が増加した。同様な結果はイギリスのバーカーも報告しているが、バーカーはさらに古く、出生時の低体重と成人期の虚血性心疾患の発症に相関性があることを見出していたため、「バーカー仮説」と呼ばれることもある。さらにSusserらは、オランダの飢餓後のコホート調査により、統合失調症の増加も報告している。なぜそのようなことが生じるのかについては、ぜひ本書の第5章を読んで頂きたい。

本書ではさらに発達期のストレスの問題、母親の痩せ願望によると考えられる低体重出生の増加なども取り上げられているだけでなく、精子から子どもに伝わるエピジェネティックな変化など、最新の基礎研究についても触れられている。医学は一生、勉強し続ける必要があるが、85歳を超えられてなお最先端の研究動向を消化されている井村先生には、尊敬の念を禁じ得ない。

第2次世界大戦以降、乳幼児の感染症が激減したことにより、平均寿命がどんどん伸びて、日本では2014年時点で女性が86.83歳、男性が80.50歳となった。115歳くらいまでは生きられるとも言われているので、医療はこれまで以上に長いスパンで考える必要がある。受精から発生、発達、そして成人期から高齢期へと、人体は時間とともに変化する。増大する医療費を抑えるためには、「ライフコース・ヘルスケア」が必須であろう。そして、従来の「予防医学」よりも一歩先んじて行う「先制医療」に取り組む必要がある。そのためには、大規模かつ長期のコホート研究や、個人の遺伝子型の同定や各種バイオマーカーの探索も重要といえる。

本書は、健康に気を使われる方であれば是非、読まれるべきである。また、今年の学部生向けの「お勧めの本」に加えておきたい。

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by osumi1128 | 2016-05-09 23:17 | 書評

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