成人式に着ようと思っていた振り袖が、会社倒産で着られなくなった新成人が相次いだという。会社の名前は「はれのひ株式会社」。振袖の販売・着付け・レンタルなどを手がけていたのだが、成人式当日に店舗を突如閉鎖したらしい。
第二次世界大戦までは、洋服のことをわざわざ「洋装」と呼ぶくらいに、和服の文化が基本、和装が日常着だった。そのような『細雪』の頃とは異なり、現在の日本で、未婚女性が振り袖を着る機会はそんなに多い訳ではない。ちょっと調べたところ、以下のようなネット記事が見つかった。
2015年、経済産業省繊維課がまとめた「和装振興研究会」の資料の中にある「きものの着用頻度」という調査では、着物着用経験のある人の83.6%が「儀式で何度か着た程度」と回答して、「日常的に着用」する者は0.3%程度となっている。つまり、現代における着物は、成人式や結婚式という「一生に一度のセレモニー」に付随する「儀式用品」と言っても差し支えないレベルなのだ。(上記サイトより引用)
世界の中で自国の民族衣装がスタンダードな国といえば、インドが真っ先に思い浮かぶ。拙ブログ主が参加する国際学会でも、インドの女性はそれぞれの地域の独自の服で参加されている。しかし、法政大学学長の田中優子先生の場合はご専門が江戸文化研究者だから良いが、国際会議の懇親会やバンケットの折であれば別だが、いわゆる和装で脳科学の学会発表を行う勇気は、私には(今のところ)無い。
お茶のお稽古を始めてから着物の面白さに目覚め、いっときはマイブームで祖母の着物で残っていたものを仕立て直したりして、着物が着たいので歌舞伎座に行った、なんていうのは遥かな昔。今は国際賞の式典や仕事関係のお祝いの会などのタイミングが合えば訪問着を着るくらいなので、やっぱりフォーマルなときが中心だ。
着物を日常的に着るというスタイルを提唱する
「七緒」という雑誌もあるが、長く続いている
「美しいキモノ」と
「きものSalon」は、それぞれが「婦人画報」と「家庭画報」に対応しているので、思いっきりハイエンドの方を向いている。つまり、戦後の高度経済成長の間、日本の生活スタイルが、どんどんアメリカナイズされていく間に、着物は「誰でも普通に着られるもの」から、エキスパートに「着付けて」もらうものへ、あるいは生活に余裕のある特別な人たちのものに変容した。
そういう流れの中で、「成人式」は「一生に一度の大セレモニー」と位置づけられ、「祖母の、あるいは親戚の叔母さんの振り袖を着る」という伝承から、商業的な「レンタル」が中心となった。「写真に残す」ことも重要になったので、着付けの仕方も「きちんと」感がエスカレートし、振り袖の帯結などはアート的に進化した。
洋服には安いファストファッションブランドが多数あって、ファスナーやボタンで簡単に着られるのに対し、和装は着るのにやっぱり時間がかかる。昨年末から数回、うちの医学部茶道部の女子たち相手に「着付け教室」を開いてみて感じたことだが、そりゃ、着付けるのに30分以上かかったら面倒な気持ちになるのは当然だ。あと、着物を着るときに個人的に一番面倒だと思うのは「衿替」なので、これがなんとか楽になったらいいのにと真剣に思う。
今回の事件がきっかけで、世間の人々は着物についてどんな風に思っているのだろうと調べてみたのだが、ネット上で見かけた意見で面白かったのは、「小さな子どもにとってはむしろ、紐1本で簡単に着付ける着物の方が、ボタンを嵌めるよりも楽だろう」というもの。確かに、時代劇に出てくる子どもたちのような着付け方は楽そうだ。
「おせっかいオバさん」が着物を着たいという人を阻害しているという説もあった。あるいは「正絹」神話というか、化繊の着物なんて邪道、という方も、洋服ならフリースでもヒートテックでも認められるのに、化繊の着物を必要以上に低く見るという文化も、ハードルを上げているのだろう。(でも、たしかに絹は手触りがいいし、暖かい。衣擦れの音だって心地よいものだ。細雪では、三女の雪子が音がする袋帯が音楽会には向かないと言っていたが、個人的には献上博多などキュッと鳴るのは嫌いではない。)
とりあえず、着物がもっと浸透するためには、安価にすることが一番。仕立て(オーダーメイド)ではなくてレディメイドを増やす、女性も対丈で半幅帯を基本にする(安土桃山時代的)、着方も緩く、草履でなくてブーツやサンダルもOK(袴とブーツは大正時代くらいにあった?)などだろうか。もちろん、毎日絶対に着物、というスタイルを提唱しているのではなく、ちょっとドレスの代わりくらいのつもりで。
着物の着こなし変遷がわかる面白いイラストを見つけたので転載しておきます。