書評『合成生物学の衝撃』

結局、今回の出張の間に読了できたのは、Kindleに落としておいた『合成生物学の衝撃』だった。新書なら新幹線で東京出張の1時間半でちょうどよいのだが、まとまった時間が普段はなかなか取れないのが目下の悩み。出張の間ならもう少し読めるかなと思っていたが、日本時間に合わせてその分の仕事もするので難しい。それはさておき……。
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著者の須田桃子さんは生命科学系に強い毎日新聞社の科学記者。本書は2016年に米国留学の間に何人もの研究者に取材したことをもとにしているので、現場の空気が伝わってくる。とにかく、生命科学業界の方も、そうでないけど現状に関心持っている方も、ぜひお読み頂くことを強くお勧めする。以下は、あまりネタバレ的にならないよう、個人的な感想を中心に。

20世紀の生命科学は、複雑な生命体を構成する遺伝子を一つずつ同定し、さらにそれを壊してみて、遺伝子の働きを理解するというストラテジーが中心だった。つまり、時計の部品(=遺伝子)を一つ壊して、もし秒針が動かなくなれば、その部品が秒針の動きという機能に関わることがわかる、という戦略だ。これに対し合成生物学は、時計を作ることによって時計という実体を理解するような工学的アプローチである。構成論的と言っても良い。リチャード・ファインマンの言葉を借りるなら、「自分で作れないものを、私は理解していない(What I cannot create, I do not understand)」となる。

本書は「生物学を工学化する」ことに興味を持ったコンピュータ・サイエンティストやエンジニアの取組みからまず紹介される。「生物学的なシステムで構成された未来のコンピュータ(本書より)」のようなものをつくれないか、という発想にもとづくこの流れは、DNA→mRNA→タンパク質というセントラルドグマを基本とする。DNAをレゴの部品のように捉えれば、部品を組み合わせて人工的にデザインした機能分子をつくれるに違いない。これはiGEMとして世界的に知られる学生のコンテストにもなっている。

このような潮流の中で、2017年に「ゲノム合成計画 Genome Project-Write」が開始された。2003年に完了したヒトゲノム計画が、ゲノムを解読する、つまり「読む」ことを目標としたのに対して、この新しいプロジェクトはゲノムを人工的に「書く」ことを目指している。10年以内にヒトゲノムを合成するという大目標は人々の耳目を集めるものだが(そしてそれは研究予算の獲得にも必要なことだが)、さすがにヒトそのものは……と実現可能性については訝る研究者も多い。

別の流れの合成生物学は、ヒトゲノムの解読に深く関わった米国のクレイグ・ベンダーを中心としたグループが推進している。ヒトゲノムや他の生物種のゲノム解読を進める過程で、ベンダーらは「ミニマル・セル」の作製を進めていた。こちらは、DNAだけに着目していても駄目で、細胞という単位で生命を考えるというコンセプトに基づく。細胞の中に人工的な指令が書かれたゲノムを「インストール」することにより、その細胞の働きを人為的に制御することが可能となる。

2016年の時点でベンダーが世界で初めてつくった人工生命体は、マイコプラズマという細菌をベースにデザインされ、DNAとしては53万塩基対(つまり、53万文字のACTGが並んでいる)、遺伝子の数として473個というものだ。本書の表紙に使われているのが、このようなミニマル・セルの写真である。人工生命体はSFではなく、リアルな実体として存在する。この人工生命体は、機能が未知の遺伝子を149個も含んでいるので、「生命とは何か?」という問いに迫る材料として興味深い。

本書の中で一番興味を持って読んだのは、米国国防総省の研究機関DARPAがなぜ合成生物学という分野に多額の研究費を投じているのかについて、生物技術研究室長、プログラム・マネージャー(PM)、防衛科学研究室副室長、戦略的コミュニケーション部長兼科学技術政策アドバイザーらに聞き取りをした部分。合成生物学の研究は「デュアルユース dual use」の問題が大きくつきまとう。そう、「生物兵器」をつくることも合成生物学の範疇になるからだ。

DARPAの研究費をもとに研究している研究者にも取材している。生命科学系の研究費は、米国ではNSH、NIHもあるが、エッジな研究に関して、DARPAのお眼鏡にかなえば潤沢な予算が付くのは大きな魅力となる。また、終身雇用の権利(テニュア)を放棄してでも、期限付きのDARPAのPMになりたいという研究者がいるということも、米国のダイナミックな研究環境の象徴と思う。

現時点で合成生物学のほとんどは基礎的な段階であり、また、CRISPR/Cas8系の登場により簡易なものとなったゲノム編集などにより遺伝子改変した蚊を放つことによって、マラリアを媒介する蚊を駆逐する、有用物質の生産性の高い細菌をつくりだす、などの平和的な応用を目指したものを中心としている。だが、疾患をもたらす細菌のゲノムを改変し、予め開発しておいたワクチンが無いと手の打ちようのない状態にすれば、このような細菌は明らかに敵を攻撃し、見方はワクチン接種により発症を免れる。

合成生物学やその基盤技術の一つであるゲノム編集はどこまで研究が許されるのか、それは研究者だけでなく、市民も議論に参加する必要があることを本書では何度も触れている。政治の世界だけでなく、科学にも「public engagement」が必要であり、それは前世紀よりもより強く求められていると思う。

本書にはきちんと出典が明記されていることも、深く知りたい方にとって有り難いだろう。今月からの発生学の授業の中で、学生にもぜひ勧めるつもりである。

【他の方の書評をまとめておきます】

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上記にも取り上げたゲノム編集技術の1つであるCRISPR/Cas9システムの原理を開発した研究者、ジェニファー・ダウドナ先生を東北大学に招いてシンポジウムを開催します。聴講希望、ポスター発表希望の方はぜひご登録下さい♬

日時:2018年7月29日(日)13:00-17:00
場所:東北大学川内萩ホール

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by osumi1128 | 2018-06-20 21:20 | 書評

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