『分かちあう心の進化』という魅力的なタイトルが付いた本書は、「比較認知科学」という新しい科学分野の入門書でもあるのですが、なんと、1つも(!)図が無いという点に驚きました。科学者はつい「データを示してナンボ」と考えがちなのですが、一般書に関して言えば、それは言葉の力が足りないからだと猛省。
本書は日本が世界をリードしている霊長類学や、著者である京都大学特別教授松沢先生が生涯をかけた「アイプロジェクト」の紹介から始まります。多くの研究が「チンパンジーは(ヒトができる)これもできる、あれもできる」という観点で為されるのに対し、松沢先生のグループは「チンパンジーの方がヒトより得意なこともある」ことを示しつつ、どのように進化の過程でヒト特有の特質が得られたのかを考察します。化石情報からは得られない「こころ」の進化を追求するためのアプローチが、現存する霊長類の間での比較を行うことなのです。
2018年6月に岩波科学ライブラリーのシリーズとして上梓された本書は210ページとやや厚め。「東京までの新幹線往復ではちょっと難しいかも……」と思って出張のお供にすることを躊躇ったため読了が遅れましたが、読み始めると面白くて一気に読み通せたのは、これまでに多数の一般書を出されている先生の筆力に加え、もともと
NHKのラジオ放送「こころを読む」シリーズの「こころの進化をさぐるーーはじめての霊長類学」という13回の放送を元にしているからでしょう。もっと早く読んでご紹介したかったと後悔。
目から鱗だったのは、ヒトは二足歩行になった「から」手を使えるようになったのではない、という点です。そうではなくて、まず天敵の少ない樹上生活をするために4つの「手」を持つ哺乳類として霊長類が現れ、さらにその中から地上に降りて足を使うようになったのがヒト。そして、ヒトの赤ちゃんは他の非ヒト霊長類と異なり、母親にしがみつかず地面に寝かされることで、最初から手を使うことが可能。そのことは、おそらく道具使用などに大きく影響したものと考えられます。また、ヒトの赤ちゃんが母親に常にしがみつかいていないで寝かされることになったために発達したのが親子のコミュニケーションであると松沢先生は推測します。そのようなコミュニケーションが「分かちあう心」の基盤にあると言えるでしょう。
もう一つ、関連して「言語の起源」についての章にもインスパイアされました。言語学の研究分野には意味論や統語論などがありますが、文の構造を研究する統語論は、いわば「文法」を扱う分野です。チンパンジーを研究対象として言語そのものではなく「行為の文法」を調べることができるということは、とても興味深いと思います。そして、チンパンジーの「数字記憶課題」のパフォーマンスがヒトよりも優れていることから、瞬間的な視覚記憶の能力と、「トレードオフ」によって言語能力を獲得したのではないか、と考察されています。この仮説は、言語コミュニケーションには劣るものの、正確な視覚記憶をもとに絵を描くことができるような自閉スペクトラム症の方がいることからも推察されると言って良いでしょう。
最後に紹介するエピソードは、チンパンジーは絶望しない、ということです。ひたすら「いま、ここ、わたし」という世界に生きているのがチンパンジー。脊髄炎のために首から下が動けなくなってしまったチンパンジーも、毎日、ちゃんと餌を食べられていれば、特段、不幸せには見えないそうです。ヒトであったら絶望してしまうこともあるかもしれません。それは、将来のことを考えてしまうから、つまり「想像するちから」があるためでしょう。究極に言えば、「いま、ここ、わたし」以外のことに思いを馳せることが可能になったからこそ、ヒトは文明を作り出したり、科学や芸術を深化させることができたと言っても過言ではないのです。
松沢先生はこれからもチンパンジーを対象とした研究を続けるとともに、月に行ってみたいと考えているとのこと。無重力・低重力状態を体験するパラボリックフライトにも挑戦したそうです。いつまでもお元気でご活躍を!
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●ちなみに、京都大学の「特別教授」というのは、本当に特別な学者にしか与えられない称号で、現在、4名の方のみ。もっとも最近、加わったのが2018年のノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶佑先生ですが、本書の著者である
松沢哲郎先生は2016年より特別教授となられ、京都大学の高等研究院の副院長となられています。
●肩書はさておき、拙ブログの一般読者の方にも松沢先生は「アイちゃんの父」、チンパンジーの研究者としてよく知られていると思います。最初に伺った講演がどちらでだったか忘れましたが、「フー・ホー・フー・ホー・フー・ホー・ウワァオ・ホホホ」というチンパンジーの「パントフート」と呼ばれる挨拶の鳴き声の真似をされたのが大インパクトでした。ちょうど日本学術会議の会員をしていた時期が重なっていたので、神経科学に関連する人文社会科学系の第一部のお話を伺うことができたことは、とても有意義でした。