Nスペで「エピジェネティクス」が扱われた!:公共放送における科学用語の扱いについての私考

NHKスペシャルの科学系番組『シリーズ人体II』、今年は「遺伝子」をタイトルにした2作が放映された。
それが家長制度のせいなのか、単に科学教育の問題なのか、日本では「遺伝」や「遺伝子」にはあまり良いイメージを持たない方が多いようだ。「親の因果が子に報い」という慣用句に表れるように、「遺伝」として親から子へ伝わる「形質」(特徴や性質など)に関して、「変えられない」こととしての諦念が伴うのであろう。つまり、遺伝子は「からだの設計図」であるという「遺伝子決定論」が日本には根強い。

実際には、遺伝子の働き方は環境に依存することは、前世紀から研究者の中では知られていたのだが、そのことは十分に伝わってこなかった。遺伝子の「鋳型」の部分の使われ方(タンパク質の合成)は、確かに「決定論」的に見える。だが、その遺伝子が働くには、遺伝子の「スイッチ」の存在と、そのスイッチを押す「指」のような役割を果たすタンパク質の共同作業が不可欠である。そして、近年、このようなスイッチの部分の「化学修飾」がスイッチの入り方に大きな影響を与えることが知られるようになってきた。

ここでは、遺伝暗号として使われる「ATCG」という情報以外の化学修飾による情報を「エピゲノム epigenome」として話を進めたい。「epi」は「上」や「後」という意味の接頭語であり、「ゲノム」として書かれている情報を「上書き」するような仕組みがあると思って頂けばよい。

さて、上記シリーズ人体II 遺伝子の第1集は「トレジャーDNA」というキーワードを用いて、「鋳型」以外の部分に着目している。実際、「鋳型」としてタンパク質を規定している部分はゲノム全体の中で2%も無いことがわかっており、2003年に終了したヒトゲノム解読プロジェクト以降、鋳型以外の98%の持つ意味について模索が続いている。

今回のNHKの番組ではこのような「暗黒部分」に光を当てたという意味で、画期的なことだと考える。

ただし、「トレジャーDNA」という用語は、科学者の間では使われていない。この意味するところは、「遺伝子の働き方に影響を与えるDNA領域」であり、「トレジャー」という言葉を用いることによって、良いイメージを与えようとしているが、実際には遺伝子の数は2万個以上もあって、その使われ方の組み合わせは無限に近いので、1つのDNA領域について「良い・悪い」ということはかなり難しい。

例えば、この番組を見た科学と関わりの少ない方が、番組を見ていない生命科学の科学者に向かって「トレジャーDNAって面白いですね!」と言ったとしよう。おそらく、こんな会話が予想される。
「え? <トレジャーDNA>って聞いたことないのですが、どんなDNAなんですか?」
「えっと、NHKでノーベル賞を取った山中先生が言ってましたよ! 何か、遺伝子ではなくって、健康に関わるようなDNAがあるって……」
「それって、何かSNP(スニップ・一塩基多型)のことですか?」
「さぁ……、何ですか? SNPって?」
「……」

なので、できればキーワードはきちんと使ってほしいと公共放送には望みたい。

第2集の方では「エピジェネティクス epigenetics(後成遺伝学)」が取り上げられている。これも、NHK初という快挙だと思う。

ただし、キーワードはよりわかりやすさを目指して「DNAスイッチ」となっている。DNAの化学修飾(例えばメチル基がくっつく「メチル化」によって遺伝子のスイッチの入り方は異なることが確かで、番組ではたいへん魅力的なCGを用いて(これは秀作)、「DNAメチル化酵素」(より正確にはメチル基転移酵素)がDNA鎖に近づき、メチル基をくっつけ、するとDNA鎖がからまってしまって「スイッチが入らない」状態になるという詳しい説明が成された。(番組では、タモリがこのDNAメチル化酵素のカタチ→画像をHPよりキャプチャしました→が「四国に似ている」として「四国」と呼んでいた。そこは問題にはしない)
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さて、本来、分子生物学の世界では、20世紀のうちから、細胞ごとに遺伝子の使われ方を決めるスイッチのようなDNA領域があることを明らかにしており、その部分は「エンハンサー」などと呼ばれていた。そうでなければ、たった1個の細胞である受精卵から、数百種類もの細胞を作り出すことはできない。スイッチを押す「指」の役割のタンパク質は「転写制御因子」と総称される。

また、20世紀の終わりから現在まで、精力的な研究が進んでいる「エピジェネティクス」業界では、遺伝子の働き方に影響するのはDNAメチル化だけでゃないことも知られている。例えば、番組のCGで出てきた、DNA鎖が巻き取られた丸い部分は、「ヒストン」というタンパク質であるが(その説明は省かれ)、ヒストンの化学修飾(メチル化、アセチル化、ユビキチン化、他にもありそう……)も、遺伝子の働き方を制御する。

そのような教育を受けてきた私の感覚では、「エピジェネティクス=DNAスイッチ」と言われると非常な違和感がある。「DNAスイッチ=エンハンサー」であり、「エピジェネティクス」は、物質としては「エンハンサーなどを中心として、DNAやヒストン等の化学修飾の総体」を意味するか、そのような遺伝子発現制御(=遺伝子の働き方の制御)の仕組み、全体を表す用語として使うことの方が多い。

なので、以下、番組HPからの引用のような扱い方自体は、一般の方向けにありえるとしても、

運動する→「脳の神経細胞を成長させる遺伝子」のスイッチがオンに→記憶力アップ!?
音楽を聴く→「聴覚に関わる神経伝達物質」を作るスイッチがオンに→音楽能力アップ!?

以下の部分にはちょっと納得がいかない。

今、遺伝子の研究で最もホットな分野の一つが"DNAのスイッチ"、専門的には「エピジェネティクス(後成遺伝学)」と呼ばれるものです。なんとDNAにはまるで「スイッチ」のような仕組みがあり、その切り替えによって遺伝子の働きががらりと変化。さまざまな体質や能力、病気のなりやすさなどが変わり、私たちの運命や人生までも左右するというのです。

NHKが民法ではなく公共放送という立場で番組を制作するのであれば、一般視聴者と専門家の間を繋げるようなものであってほしいと願う。そのためには、きちんとした「専門用語」の認知度を上げることが重要ではないだろうか。

……そんなことを考えて、本ブログ記事を書くために英語の情報を漁ったところ、「DNA switch」という用語はGoogle検索で375,000,000件以上ヒットし、一般向けの媒体では「Harvard University uncovers DNA switch that controls genes for whole-body regeneration」(The Telegraph誌より、2019.3.14)というようなヘッドラインでガンガン使われているようだ。こうなると、むしろ、私の用語の方をアップデートした方が早そうだ……。

ともあれ、Nスペでサイエンスを扱われる頻度は決して高くないので、2周遅れの感はあるものの、今回の「シリーズ人体II 遺伝子」を高く評価したい。とくに、スペースシャトルで1年以上過ごした宇宙飛行士が、定期的に得た自分の血液サンプルや、宇宙に行かなかった一卵性双生児の兄のサンプルを比較し、宇宙環境でどのような「DNAスイッチの変化」が生じているか調べるという研究は、まさに「ムーンショット」的なプロジェクト(これ1つでは規模は小さいが)だと思う。

ちなみに、私自身の研究ともっとも近い内容は、「精子トレーニング」という煽った(笑)サブタイトルのパート。父親の栄養状態が子孫の健康に影響するという、Developmental Origin of Health and Disease (DOHaD)説に基づく研究が紹介されていた。関連する研究内容については、過去ブログを参照あれ。


今、こうした最先端の研究によって、親が「経験によって獲得した性質や体質」の一部が、次の世代に遺伝する可能性が明らかになってきているのです。

という番組HPの記載部分は、現時点ではやや先走りすぎだと思うものの、進化の仕組みの中にエピジェネティクスが取り入れられる時代になりつつあることは確かだと思う。さらに再放送を望みたい。


by osumi1128 | 2019-05-18 10:31 | 科学 コミュニケーション

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