ブラタモリに学ぶ「文理協働」

某公共放送の番組の中でもっとも好きなのが「ブラタモリ」。タモリが日本全国各地を訪れ、その土地の歴史、地勢、資源、産業、生態などが専門家から紹介される。「扇状地」、「末端崖」、「柱状節理」といった専門用語がたくさん出てくるが(とくに地学の用語など)、繰り返し観ているうちに覚えてしまう。ふと気づいたのだが、「ブラタモリ」ではいわゆる「文系」の知識と「理系」の知識が、一緒くたに提供される。究極の「文理融合」、いや「文理協働」の構成となっている。(画像は2015年7月に放映された仙台編のザ・テレビジョン紹介記事より拝借。桑子アナが懐かしい…… https://thetv.jp/news/detail/60668/337752/
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隠岐さや香氏の『理系と文系はなぜわかれたのか』(星海社新書)に歴史的経緯が詳しく書かれているが、実感としても日本では文理の壁が高くて厚い。大学入試に合わせて、早ければ高校1年生くらいから理系か文系かの進路選択を意識させる。大学も専門教育の前倒しと行ったため、1年次にさえ専門科目が降りてくる。文系学部の学生が理系の科目を選択する自由度、あるいはその逆は極めて少ない。結果として、日本では理系のことを知らない文系人材と、文系の素養に欠ける理系人材が輩出される。
この影響は極めて大きい。
おそらく、第二次世界大戦後、その頃に必要な専門性を備えた人材を「促成」することは、急激な産業復興に大いに役立った可能性がある。とくに、理系人材に必要な知識を詰め込むには、大学3年、4年の2年間では足りない。だから、なるべく早めに専門教育を開始すべきという雰囲気となっていたのだろうと想像する。(高等専門学校の設置も同じ背景があると思われる) その延長上で、いわゆる大学1年2年の学生が学ぶ「教養部」の解体は1991年に決まった(大学設置基準の大綱化)。本来であれば目指す方向は逆だったのではないかと思うのは後付けではあるが、日本における種々の状況が世界の他の国々と大きく離れてきた今、分水嶺だったのは約30年前のこの時点だったのではと思う。

結果として、文系・理系の大学生が共通で学ぶ科目や時間は少なくなった。つまり、文系人材と理系人材が共通に理解できる「言葉」が、おそらく以前より格段に減ってしまったであろうことは想像に難くない。これは、両者が協働することを難しくしている。

また、「女性だから理系進学はちょっと……」という差別も強化された可能性もある。国家資格を得られる業界は別として(いや、医学の分野はまた状況が異なるが)、世界の状況を見れば、生命科学、環境科学等では女性比率は50%を越えているし、化学、物理学でも日本の倍くらいの比率の女性が参画している。もし大学入学試験のときに「理系・文系」の選択をしなくて済めば、受験先は「心理学にするか、生物学にするか、どちらかにする」という選択肢もありえるが、現状はそうではない。

さらに、日本における「文理の壁」は、国全体のIT化やディジタル化を大幅に遅らせることとなったと考える。良いシステムを構築するのにIT技術を導入することは必須であるのに、意思決定に関わる文系人材が、情報科学人材と協働するための”糊代”が無いために「専門家に丸投げ」という形になってしまうことにより、いかに組織のIT化が遅れ、役に立たない無駄なシステムが構築されてきたことか……。

例えば米国の大学では、ダブルメジャーの片方が化学、もう片方が歴史学、というような人材が輩出される。その後、進学する大学院も学部と異なり生物物理学だったりする。そういう人材の中には、これまでに無い新しい分野、融合的な分野を開拓していく逸材が生まれると信じられている。一人で何足ものわらじを履くタイプが自然と生まれる。「人と同じこと」をただ早くできるという人材を入試で選抜していては、根本的な革新は望めない。

「文理融合」というキーワードは、重要であり魅力的であるが、実際にはそう簡単な営みではない。両者の経験の違いが認知パターンの違いを生み(例えば、私見によれば、理系の方が視覚的、文系の方が聴覚的)、それぞれで"常識"とされることが違い、使う言葉が違う。上記のようなダブルメジャーの人材は、いわば個人内で文理融合ができており、もしかしたら、日本でも2年間の教養教育を受けられた時代の大学卒業生は少しはそういう側面があったのかもしれない。ただし、20年前、30年前に得た知識は、この進歩が加速する時代において、すでに過去のものになっている可能性は高い。リカレント教育は、リタイアした方だけでなく、現在、キャリアの真っ只中の方にも必要だろう。

私は「文理協働」の方が、まだ実態に即したものになると思う。"いわゆる"文系・理系の人間がともに"協働”しなければ、例えば「持続可能な開発目標(SDGs)」のような社会の大きな課題を解決することはできない。そのときに必要なのは「コミュニケーション力」である。相手にわかる言葉を用いて議論することが大事である。日本人が若い年代の人達まで「同調圧」が強いことは、異なる背景を持った人間とのコミュニケーション力不足の結果なのかもしれない。その意味で、「文系・理系」という二項分類になってしまうことが問題なのだ。グループが2つしかないと、「自分の属するグループ」と「それ以外」に分かれてしまう。血液型占いであれば4つの分類なので、自分以外のグループにも多様性があることが認識されることから、二項分類とは異なることがわかるであろう。

2021年から第6期科学技術基本計画が開始されるための議論が行われつつあるが、個人的には議論を「科学技術」の範囲に閉じていては、Society 5.0の推進もイノベーションの達成にも繋がらならないと思う。単に次の5年の計画を立てるだけでなく、人材が育つ時間を考慮した「今後30年」を見据えて考えるべきであろう。

拙ブログ:リカレント教育と働き方改革(2018.3.18)

by osumi1128 | 2019-08-10 22:32

大隅典子の個人ブログです。所属する組織の意見を代表するものではありません。


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