2019年11月2日(土)19:55に父(
大隅清治)が他界しました。享年89歳でした。母も私もきょうだいがいないので、身内の他、父を良く知るごく少人数での小さなお葬式を6日(水)に都内で行いました。
母の話によれば、その日の朝から気分がすぐれず、吐いたりしてしばらく休んでいたものの、やはり様子がおかしいので、再度かかりつけ医に連絡して、心筋梗塞の疑いにより救急搬送。病院では心臓カテーテル検査により左冠状動脈枝に梗塞が見つかり、バルーン治療等を施したものの、救命することができませんでした。
母から連絡を受けたのは、東北大学で開催された学士会講演会の講演を拝聴し、MRIの検査を受けに行って、まるで図ったように、ちょうど終わったところでした。母の電話はオペ室からICUに移された時点だったと思うのですが、要領を得ず(きっと動転していたのでしょう)、とりあえず新幹線で上京しましたが、到着したときは、すでに種々の管も外された後でした。あと30分というところで臨終に間に合わず……。父は静かに病院のベッドに寝ていました。
朝の時点で「パパの様子がこれこれなんだけど……」と連絡してもらえたら……、かかりつけ医が朝の時点で救急車を呼ぶべきとアドバイスして頂ければ……、そもそも、心筋梗塞の原因となる歯周病を防ぐために歯磨きをもっと徹底してもらっていたら……等、「たら・れば」の可能性はいくつも浮かびます。ただ、母も私も傍にいるところで生涯を終えたのは、神様のご配慮かもしれません。私にとっては、他の予定をキャンセルしていた連休だったので、すぐに上京できました。また、母は主宰するNPOの15周年の式典を8日に予定していましたので、そちらの開催も可能。そもそも、父は認知症にはなりたくないと強く考えていたと思いますが、「典子にもマッチン(母のこと)にも介護は期待できない」と想像していたことでしょう。生前に延命措置はしない方針と母には伝えていたとのこと。
父は紫水会出身で海洋哺乳類の研究者でしたが(その意味で、今回の祭壇は「海」のイメージでとても良かったです♫)、家族に対して不平不満を全くといっていいほど言わない人間でした。身体的な辛いこともあまり口に出さないタイプなので、今回の朝の最初の症状についても、これまでとちょっと違う苦しさであったことを、うまく説明することができなかったのだろうと想像します。
80歳くらいまでは、糖尿病の傾向はあるとはいえ元気な後期高齢者でしたが、2013年(83歳)の暮に検診で大腸がんが発見されました。手術するならお正月明けが良いという本人の希望により(ご馳走を食べてから、という意志であったかと……)、2014年の松の内に大腸がんの手術を行うことになりました。ところが「かつて盲腸を<散らした>ことがある」という既往歴を主治医に申告しておらず、オペは内視鏡下で行われました。結果として、腹腔内の癒着が酷かったために大腸切除・吻合手術がうまくいかず、予後が悪くて2ヶ月ほど入院。いったん退院したものの(予想通り)9月に再入院となり、今度は開腹手術で1ヶ月で退院。初めての入院が長期にわたり、散々な目にあったので、病院にいるのはもう懲り懲りと思ったと思います。
無事に回復し、2017年の8月には、名誉館長を務める
くじらの博物館のある太地の町長さん御一行と一緒にクジラ漁を行うデンマークのフェロー諸島訪問なども果たしました。このとき、なんと偶然にも成田空港のコペンハーゲン行きゲートで父に遭遇(画像)。私は北欧のリンショーピン、ストックホルム、トロンハイム訪問でした。
ただ、暑い日が続いた昨年(2018年)の6月末、朝、立ち上がれない、舌や口腔にしびれがあるとのことで都内病院を受診し、結局、特段の異常は見つからず、熱中症のような状態であろうとの判断。その後、専門医にも診て頂きましたが、脳梗塞の疑いは無し。その頃から、少し(年並に)元気の無い様子が目につくようにはなったと思います。
今年(2019年)3月には、宴会後に転んで右上腕骨を骨折(前回がいつであったか、もう不明ですが、顔面血だらけで帰宅したこともあり)。その後は、外で飲むのを控えるようになっていたようです。そういう意味では、直近で少なくとも3回、命拾いをしていた訳でした。
長年勤めた旧遠洋水産研究所(現在は
国際水産資源研究所)を定年退職後、
日本鯨類研究所の所長を務め、その後もさらに顧問という立場で毎日のように伺っておりました。折々に呼ばれれば各地で講演なども行い、最後まで現役のつもりであったと想像します。実際、なんと前日にお目にかかっていた東京海洋大学教授の加藤秀弘先生は、40年来の親交のある方なのですが、ここしばらく一番の懸案であった商業捕鯨移行後の日鯨研の存立基盤について、幸いなことに維持できる見込みとなり、「ああ今日は、いい話ができたなあ」とお別れしたというお話でした。とても有り難いことに、追って日鯨研の方で「偲ぶ会」を開いて下さるようです。
お酒も好きでしたが、本を読むことが大好きで、単身赴任先の清水から新宿に来てからは、近所の区立図書館でたくさんの本を借りて読んでいました。書くことも得意であったと思いますが、いくつかの原稿の一つは中学校の国語の教科書にも使って頂いたようです。認知症予防にかどうか直接訊いたことはありませんが、数独もずっとチャレンジし続けており、実家には直近でナンプレ中級編の本が残っていました。最後に父に会ったのは、ちょうど旧制新潟高等学校の同窓生の集まりに行くという日で、手提げの中から学帽を見せて「寮歌を歌うんだよ」と話してくれました。
昨年、米寿のお祝いをしそこねてしまったので、次は卒寿だと思っていたのですが……。私が定年で時間の余裕ができれば、もっと手料理も食べてもらえると勝手に考えていたのに……。残念です。
母も研究者で、あまり家族旅行などできない家でした。唯一、手元にある画像を貼り付けておきます。母が日本女子大学を退職する前、2004年のお正月、伊豆修善寺のあさば旅館さんを訪れたときのスリーショット。そして、遺影として使った父が1999年に撮って頂いたポートレイト。どうもお気に入りだったようで、自筆のサインを残していました。
合掌。