身近な家族として、母方の祖父が亡くなったのは昭和62年(1987年)、94歳の大往生でした。その1年半後に祖母が81歳で亡くなりましたが、私自身はまだ20代で、いろいろなことが分かっていませんでした。今回は自分がしっかりしないといけない立場でもあり、意識的に臨むことになりました。備忘録も含めて葬儀関係のことを記しておきたいと思います。
11月2日に父が息を引き取って、入院した病院の霊安室に運ばれ、夜遅く、葬儀社の方とともに母と葬儀をどうするかを決めました。まず、うちは親戚も少ないので、葬儀はごく身内のみ。さらに84歳という母の年齢と、8日にどうしても行いたいイベントがあること、仙台で仕事を持つ私も参加できる日程等を鑑み、「一日葬」というやり方があることを知って、そのようにしました。バタバタとお通夜や告別式を行うよりも、父にとっては研究や仕事関係で人々が集まってもらえることの方が嬉しいであろうと考えたためでもありましたが、行幸いなことに、日本鯨類研究所(日鯨研)の皆様が「偲ぶ会」についてお申し出頂くことができたことも有り難いことでした。
人が死ぬのは多くの場合、いつになるか予め決まっていませんし、葬儀の日程は遺族の意志だけで決めることもできません。葬儀を行う場所や、火葬場の予約、もし法事を行うのであれば、お坊さんの方の都合もあります。
今回は、家族葬に相応しい小さな会場として、都内のお寺(しかも、区画整理のためにマンションの1階)を6日に確保でき、さらに宗派が異なるので、お経をあげて頂くのはまた別のお寺にお願いする、というハイブリッドなやり方になりました。こんなことが可能なのは21世紀の東京ということでしょう。そもそも父は無宗教なのですが、だからといって無宗教で行うということは、なんとなく落ち着かない気がしました(遺言が無かったので家族の都合です)。
遺体は、これも有り難いことに、葬儀の日まで病院の霊安室に置いて頂くことができました。4日間置いて頂くことにもなったので、軽いメイクを施し、髪も整えて頂きました。「送り人」の世界です・・・
葬儀の前に、父の戒名を教えて頂きました。
慈海院真寿清徳居士(じかいいん しんじゅ せいとくこじ)
説明は、今回読経を頂いた副住職の方から受けました。事前にご住職が母にお電話下さり、どんな仕事をしていたのかなどを聞き取り調査した上で、とても素敵な戒名を付けて頂きました。広い心としての「慈」、海洋生物学者としてのフィールドであった「海」、長く真理の探求に努めてきたこと(「真寿」)、父の名前から取った「清」も加えて付けられた戒名です。
白を基調に青の花をうまくあしらった祭壇の「海」のイメージ(1つ前のポストのサムネイル画像になっているもの)ともぴったりの戒名でした。この祭壇は葬儀の打合せ時見せて頂いたパンフレットの中から、母が瞬間に気に入ったものでした。
都内では一般的だと思いますが、初七日も含めた葬儀を終え、父は霊柩車で火葬場まで運ばれ、30分ほどでお骨になりました。思いの外、しっかりとしたお骨でした。骨壷を抱えてタクシーで母と実家に戻りました。親戚との精進落しもせず、全行程4時間ほどの超シンプルな葬儀となりました。
すべての過程で、プロフェッショナルな方々が淡々と仕事をこなしていることが印象的でした。ある意味、人間の営みがどんどん都会的、人工的に加速し、生き物から離れていきつつあることを実感する日でした。
いちばん感動したのは遺体の処理でした。実は、私がICUに駆けつけたとき、父は口をあんぐり開けてベッドに横たわっていました。まるで寝ているのかと思ったくらいでした。看護師さんのお話では、心臓の機能が衰えてしまって最後、呼吸が苦しかったり吐いたりしたそうで、そのためだったようです。「これ、なんとかならないでしょうか?」と申し上げると、包帯を持ってきて一生懸命、顎を閉じようとして下さいましたが、あまり功を奏すことができず・・・。ところが霊安室で2日目に対面した際には、顔の周囲に白いひらひらとした布があって、口が閉じています。どうも葬儀社の方がプロの技を発揮して頂いたようでしした。
もう一つ、戒名を付けて頂いた住職の方は、音楽療法だったかの講義を非常勤講師として行っているとのこと(なので、今回の法要は副住職の方に執り行って頂きました)。副住職の方もどこかの大学で非常勤講師をされているらしく、昨今のキャリアパス事情にも触れた次第。
今のところ、「偲ぶ会」は12月23日(月)の予定となっています。追って詳細が決まりましたら拙ブログでも紹介します。