一部、先週号の週刊ダイヤモンドとネタが被っていたので、その号の発売終了を待ってからということで、ここに去る12月23日の「大隅清治を偲ぶ会」でご挨拶させて頂いた遺族の言葉を全文掲載させて頂きます。(公開用に当日用意していた原稿を一部、整えてあります。また、実際にはさらにアドリブの部分等もありました。画像は研究室の有志より頂いた供花です。私の関係者にはほとんど知らせていませんでしたが、お志しを有り難く頂きました)
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大隅典子より感謝のことば
先程母が簡単にご挨拶致しましたが、声が出しにくいということもありまして、娘の私、典子の方から皆様にご挨拶させて頂きます。
「父はクジラの研究を行っていて、母は酵母菌の研究、私はちょうどその間で、ネズミやヒトの研究をしています」という自己紹介が定番なのですが、東北大学で脳がどのようにして作られるかという研究をしています。
副学長としては、広報とダイバーシティが担当、附属図書館長も務めております。
このたびは年末も押し迫るお忙しい中、父、大隅清治のために、かくも盛大な「偲ぶ会」を開催頂きまして、誠に有難うございました。
参議院農林水産委員長をお務めの江島 潔様、衆議院議員の山際大志郎様、水産庁長官の山口英彰様には、ご来賓として心のこもったお祝辞を有難うございました。
父はクジラをはじめとする海洋哺乳類の生態に関する研究や、水産資源の持続的な利用についての仕事に、本日お集まりの皆様とともに最後まで関わることができて、たいへん幸せな人生であったと思います。
東京大学農学部水産学科在籍中より、当時の鯨類研究所にお世話になったことがきっかけでこの道に入った父ですが、海の無い群馬県の出身の父にとって、大海原は憧れだったのではと思います。
ご存知のかたも多いと存じますが、ヒゲクジラ類に関して「耳垢で年齢を推定する方法」は父の学位論文にもなりましたが、私自身の学位論文よりスケールが大きくて羨ましいと思いました。
父が他界した後、国立国会図書館からコピーを取り寄せてみましたが、目次がタイプライターで打たれており、時代を感じさせるものでした。
私が小学校に上がってから、父は当時の遠洋水産研究所に勤務しておりましたので、いわゆる単身赴任でした。ですので、毎日、一緒にいるという経験がありません。
そのため、去る11月2日に急性心筋梗塞で亡くなったという事実が、私にとっては、まだどこか遠いところの出来事のような、実感を伴わないものとなっています。
連絡を受けて新幹線で駆けつけたものの、あと30分で臨終に間に合わなかったということも無念でなりません。
個人的な思い出話をするとすれば、父はとてもロジカルであり、子ども相手でも容赦ありませんでした。
「飛車角落とし」で対戦した将棋も勝たせてくれたことはなく、以来、将棋は嫌いになりました。
毎週、金曜日の午後に鈍行、つまり普通列車を東海道線、横須賀線と乗り継いで、清水から逗子の家まで帰ってきて、翌、日曜日の夕ご飯を一緒に食べた後に、また帰っていくという習慣で、当時の私は「新幹線ならもっと長く一緒に過ごせるのに……」と不満に思っていました。
今なら、単身赴任の方が毎週、片道3時間以上かけて行き来することが、どんなにたいへんなことか、よくわかります。
母も働いていましたので、親子で旅行に行くということもあまりなく、父と一緒に行ったのは唯一、1980年代後半にIWCがエジンバラで開催された折でした。
私はちょうど大学院生だったと思いますが、自分の発表する国際会議が、やはりエジンバラでの開催だったのです。
貧乏な研究室で、自腹での参加でしたから、父のホテルに転がり込めれば宿代が浮いてラッキー♫と思ったのでした。
ところがなんと、ホテルは連日、反捕鯨団体が周りを取り囲んで、一日中、シュプレヒコールを上げているという状態でした。
ついでに言うと、父の鼾が酷くて、時差もあって睡眠不足で、さんざんな出張となりました。
ただ、そのときの経験は強く印象に残っています。
科学的に正しくても、それだけでは通らない。
ファクトをどのように見るかは、立場によって違う。
とにかく、対話は続けなければならない。
そういうことを学んだことが、現在、私自身も一般向けの書籍執筆やシチズンサイエンスの重要性を感じるルーツになった気がします。
感情ではなく科学的エビデンスに基づいた議論をすべきということは、一貫した父のポリシーであったと思いますが、「ウシの放牧のようにクジラを海で管理すればよい」という父の夢は、戦時中、ひもじい思いをした経験にも基づいているのでしょう。
私の世代でもクジラの竜田揚げは給食の定番で、貴重なタンパク源でした。
今は、本日ご用意されたように、もっと美味しい鯨肉料理を堪能することができますね。
先程からのお話にもありましたように、父他界から約1ヶ月後の12月5日、第200回臨時国会衆議院本会議において、全会一致で商業捕鯨に関する法律の改正案が可決され、「鯨類の持続的な利用の確保に関する法律」となりました。
無事に法案も通った今、日本が生態系に配慮したサステナブルな捕鯨のお手本を示すことを、父は空から見守っているに違いないと思います。
でも本当は、実際に持続捕鯨がどのようになるのか、その目で見届けたかったのではないでしょうか。
父の最後の数ヶ月は、自分の命の残りの長さを科学者として測っていたように感じます。
ただ、最後に心筋梗塞になるということは、本人にとっても想定外だったと思います。
父は本の虫でした。
現在、母がおります新宿の実家の近くに、区の図書館の分館があり、父はたくさんの本をそこで借りてきていました。
書く方も好きでしたので、『クジラは昔、陸を歩いていた』というPHP出版からの本などを著し、教科書等でも引用されているようです。
本日は、皆様に父からのメッセージとして『クジラと日本人』という2003年に刊行された岩波新書をお届けしたいと重版して頂きました。
すでにお読みになった方もおられると思いますが、父の願いであった「持続捕鯨」が再開された今、再度、手にとって頂けましたら、あるいは、周囲の方にお勧め頂ければ幸いです。
父と最後に言葉を交わしたのは、亡くなる1ヶ月ほど前でした。
その日は、旧制新潟高等学校の集まりに行く予定があり、学帽を見せてくれて、「これを被って寮歌を歌うんだよ」と笑いながら話してくれました。
残念ながら父の臨終に間に合わなかったので、父が最後に私にどんな言葉を残そうとしたのかはわかりません。
おそらく「マッチンをよろしく」と言いたかったことは間違いありません。
ただ、娘の私には何と言ってくれようとしたのか……。
私自身は、それを探りながら生きていきたいと思っています。
最後に、秋川雅史によって有名となった『千の風になって』という歌の冒頭の一節を読みたいと思います。
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
まだ納骨は済ませておりませんが、お墓の中に入っても、父の魂は遠い海原の上に広がる大きな空から、クジラたちの様子をいつまでも見守っているのではないかと思います。
本日は、誠に有難うございました。