生物学とジェンダー学の対話
2006年 07月 08日
事前参加申し込みが定員に達して断られた方もあるようで、確かに会場はほぼ満杯という盛況ぶりでした。
主催者側から江原由美子先生と黒川会長のご挨拶があり、総合司会の後藤俊夫先生が猪口邦子大臣からのメッセージを読み上げて始まった。
講演は、以下の通り。
原ひろ子「男女共同参画社会の実現と学術の役割」
上野千鶴子「ジェンダー概念の意義と効果」
束村博子「女と男はどう違う?ー生物学的視点からー」
大内尉義「性差医療の可能性」
井谷恵子「ジェンダー研究からみた体育・スポーツの可能性と課題」
休憩を挟んで、予め予定されたディスカッサント(以下)からのコメントがあった。
竹村和子
長谷川真理子
黒田公美
五十嵐隆
加賀谷淳子
その後、ようやく総合討論となって、フロアからも質問・コメントができるようになり、真っ先に上野先生に対して「セックス=ジェンダーだ、という考え方は生物学的には受け入れられない」「<ブレンダ>は性同一性障害の問題を語るときにそもそも適切な例ではない」という反論を述べた。
上野先生からは「セックスはジェンダーという言語的認知カテゴリーを介してのみ認識される」という点を強調されたが、「生物学的には、性は言語が生まれるよりもはるかに昔から存在しているものである」と、さらに反論。
竹村先生から「ジェンダーは<二項化する>という行為である」
上野先生から「ジェンダーは人間のみに当てはまる」
などの意見がさらに出て、総合討論の司会をした江原先生から「ジェンダーという言葉をどのように使うかについては、研究者の間で必ずしも一致していない」とコメント。
この点が、「生物学とジェンダー学の対話」が難しい点であると思う。
定義がはっきりしていないものは科学では扱えない、とワタクシは思う。
あるいは、少なくとも生物学における議論では<定義>をはっきりしてから行う、と言い換えてもよい。
<ブレンダ>については、上野先生は講演の中で、近著『バックラッシュ』(双風舎)の中で小山エミ氏が反論している、と述べたが、これは私のコメントとはずれた内容なのでここでは言及しない。
「<ブレンダ>は、そもそも、Y染色体を持ち、男性型の脳と身体を持って生まれたにもかかわらず、事故によって小さいときから無理矢理女性として育てられ、やがて<自分は女であるようには思えない>と気づいて、性別再判定を受けたのであって、元々<性同一性障害>であった訳ではないので、そのような例として引用すべきではない」
これに対し、上野先生は「<ブレンダ>についてはそうかもしれないが、そうではない別の事例も報告されている」
科学の世界では、1つでも反証がある場合には、その説を再検討するのが作法であると私は思う。
竹村先生からは「ホルモンによって雄化した雌は、自分を雄だと思っているのでしょうか?」という珍問があり、長谷川先生から「それは訊いても答えてくれないでしょうが、交尾行動を取ることをもって雄だというのであれば(定義)、そうだと考えられます」
・・・というような具合で、上記のようなやりとりが「対話」になっていたのかどうか、私には疑問なのだが、これまでこのような機会はなかったのだから、大きな進歩かもしれない。
また、「<ジェンダーフリー>などケシカラン!」とただ叫ぶような方が聴衆にいなかったのは幸いであった。
念のために誤解がないように申し添えるが、私は上野先生の仰ることをすべて「受け入れられない」と言っているのではない。
敢えて<ジェンダー>という言葉を使わずに私なりに言うとすると、「性別に基づく差別には不当なものがあり、したがって、性別に基づく差別に対して敏感であるべき」だと私も思う。
また、最後にフロアの方が言われた「性同一性障害の人たちは<ジェンダー学>ができたことによって救われた面があるのではないか」というコメントは、大きく考慮するに値すると感じた。
また、これは常々言っていることだが、「生物学者」はこれまで、自分たちの集団の中で閉じており、きちんと社会に対して説明をしてこなかったことが、「ジェンダー学と生物学の大きな溝」の最大の原因ではないかと思う。
多くの優秀な生物学者にとって、CNSに論文を掲載することの方が、アウトリーチよりも大事だったのだ。
その意味で、先日取り上げた山元大輔先生は、ショウジョウバエの脳の性差に関する論文をNatureに出され、なおかつ一般向けの読みやすい本も書かれているような、数少ない方といえる。
ところで最後に、時間もなくコメントできなかったことなのだが、上野先生のスライドに「身体の性と心の性が不一致であるときに、ジェンダーをセックスに一致させるより、セックスをジェンダーに一致させる方が容易?」とあった。
(たぶん、この文章における<セックス>と<ジェンダー>が、一番自然な、つまり、一般の人たちが考える<ジェンダー>なのではないかと思うが)
これは全くその通りである。
何故なら、現在の医療では「脳のつくり」を変えるところまで発達していないのだから。
ただし、この問題は倫理的に別の問題にもつながる点をはらんでいる。
例えば、誰かが「私はもっと力強くなりたい!」と考えて、自らの遺伝子を改変して筋肉増強するとか、機械を使ってサイボーグ化するということは許されるのだろうか?
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少し前に「サイエンスエンジェル」のことを書いて「チャーリーズエンジェル」をパクったポスターは面白いのでは?と述べたのだが、こちらについて関係者から駄目出しされてしまいました(涙)。
なぜなら、Charlie's Angelsたちはボスのチャーリーさんに仕えているという設定なのが、「サイエンスエンジェル」には適さないとのこと。
・・・でもカッコイイのになあ・・・
あ、ちなみに私がイメージしているのは、ファラー・フォーセットの出てた頃のものではなくて、ルーシー・ルーが出てる方なんですが。