生物学とジェンダー学の対話は本当に可能か?
2006年 07月 11日
ずっと立って話すので足は棒になるが、熱心な受講生の皆さんのおかげで、本日も充実した一日でした。
今日のNHKスペシャルでは軍事ロボット等のことについて放映していた。
無人の飛行機(その名もプレデター)にセンサーと人工知能を積んで、敵地を偵察しながら目標物(人の場合もあり)目掛けてミサイルを発射できるという。
筑波大学の山海先生の研究室では「ロボットスーツ」を開発しており、着用すると、自分の筋肉を動かす神経伝達を利用して、通常のヒトでは持ち上げられない重い物を持ち上げることが可能。
アメリカ等から軍との共同開発の打診があったが断ったそうだ。
何故なら、座右の書であるアイザック・アシモフの「ロボット工学三原則」の第一条に次のように記してあるから(念のため三原則すべて引用。作中では、2058年の「ロボット工学ハンドブック」第56版からの引用という形になっている)。
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。(A robot may not harm a human being, or, through inaction, allow a human being to come to harm.)
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。(A robot must obey the orders given to it by the human beings, except where such orders would conflict with the First Law.)
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。(A robot must protect its own existence, as long as such protection does not conflict the First or Second Law.)
(Wikipediaより。日本語訳は アイザック・アシモフ 小尾芙佐訳 昭和58年「われはロボット」早川書房 P5 より引用とのこと)
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ところで、前エントリーには沢山のコメントを頂き、有難うございました。
「生物屋」として言い足りないことがあるので、追記します。
「生物学的な性」の起源は、「有性生殖」という戦略が取られたときに遡る。
今手元にある資料では調べきれなかったが、地球の誕生が46億年前、最初の生命体誕生が40-35億年前、それから、真核細胞の出現が25-20億年前、多細胞の出現は15-10億年前で、有性生殖はだいたい同じ頃であったかと思う。
かたや、「二足歩行の習慣を持つ」と定義づけられる人類は、およそ600万年前にアフリカに出現し、250万年前に、類人猿よりも大きな脳を持つ種が石器を発明し、(実はそのお陰で、植物中心の食事に動物の肉と骨髄が加わった)、100万年前までにアフリカからユーラシアまで広がったが、現生人は5万年前頃に当時共存していたネアンデルタール人などに取って代わった、とされている。
「言語」の起源をどこまで遡れるのかは私は不案内なので言及しないが、どうあっても、地球の歴史を1年とした場合に、大晦日の除夜の鐘が聞こえる頃であることには違いない。
・・・これが、生物学者が考える「性の歴史」であり、それは、どんな言葉を使おうが使うまいが、リアルなものとして地球上に存在していたのだ、という風に考える。
そして、そこには何ら、政治的な意図などは介入しない。
土曜日の討論の際に長谷川先生が言われたことと同じ心理だと思うのだが、「ヒトの脳が<言語化>している世界は、生物の営みの中の<氷山の一角>であって、言語化されない実体、例えば本能であったり、無意識の行動や好き嫌いであったり、には多様なものがある。
生物屋は、そういう生命現象が自分の知らないことも含め、たくさんあることを受け入れた上で、自分の研究対象に絞った分析や考察を行う。
生物屋が生命現象に関する議論を行う際には、お互いの<定義>が共通であるかどうかをさぐりつつ進める。
もし齟齬があれば、「今は、こういう<定義>だと了解した上で議論しましょう」ということになる。
いみじくも、土曜日最後に質問された咲良美月さん(学部生とのこと)が、前のエントリーにコメントを残しておられるが、
「セックス」と「ジェンダー」の使い方に、生物学とジェンダー学でずれがあったように感じたのは私個人だけの見解でしょうか?
同じ、「人間」という個体をきる切り口によってこんなに差が出てしまうということにびっくりしました。
ここが大きな問題で、議論が先に進むことができなかった、というのが私の正直な気持ちである。
前のエントリーにも少し書いたのだが、あるところでは「<ジェンダー>は差別化する<行為>です」と扱い、別のところでは「身体の性と心の性が不一致であるときに、ジェンダーをセックスに一致させるより、セックスをジェンダーに一致させる方が容易?」という風に使われたら、一体どちらの<定義>で議論をしたらよいのか、ナイーブな生物屋は大混乱に陥るのだ。
もし、「ジェンダー(社会的な性)にはセックス(生物学的な性)を含むもの、と定義しましょう」と言われるのであれば、それは「名詞」として扱うのですね、分かりました、ではその上で議論しましょう、ということになるのだが、そこから<ジェンダー>という言葉がどんどん一人歩きをしてしまって、生物屋は付いていけなくなる。
「じゃあ、どうぞご自由に、その世界が分かる方でご議論下さい」ということになってしまう。
おそらく、もう一つ生物屋が肌感覚として「ジェンダー学者」の方々に違和感を感じることがあるとすれば、それは「身体性の排除」という点である。
生物屋は、日頃当たり前のように接しているDNAであるとか、体内に血が流れ暖かさを持つネズミであるとか、人それぞれ異なるが、そういう実体を通じて「生き物」を捉え、その集団の中に含まれるものとして「ヒト」を捉えている。
もちろん、生物屋なりに「人」についての議論や考察をすることもある訳だが、その場合でも思い描いているものには、ジェンダー学の方とは隔たりがあるのかもしれない。
言ってみれば(あくまで比較においてだが)、生物屋は自然の豊かな農村にいて、世界をそのように理解しているのに対し、ジェンダー学者の方々(そんなに多く存じ上げている訳ではないので、こういう一般論的言い方はよくないかもしれないのだが)は、都会にいて、バーチャルに世界を捉えているようなものかもしれない。
※「都市化→頭化→身体性の排除」ということは、養老先生が繰り返し述べていることでもある。なお、コメントでkanさんは、同様の指摘をしている。
バトラーは"Gender Trouble"の中で,デカルト的な精神と物質の二元論を精神に一元化しようとしますが,こうした考え方が『身体性フォビア』を生み出しているように思います。セックスを生み出す法則があるとして,そこから自然という身体性を剥奪し,文化的・社会的構築物としてのみ捉える結果,身体性をすべて拒絶するような新たなフォビアができあがっているように思われます。
※※ここでいう「農村」と「都市」は、どちらが良い、悪い、という意味は付与していない。
異なる価値観や研究作法を持つもの同士が対話をする、そのこと自体は素晴らしい。
もしかすると、そのカオスの中から何かが生まれるかもしれない。
ただ、そのためには、土曜日のシンポジウムはあまりに時間が足らなかったのが残念である。