系統樹思考の世界

東京出張の行き帰りに、久しぶりに日本語の本を読みました。
海外出張から戻ってみると『系統樹思考の世界 すべてはツリーとともに』(三中信宏著、講談社現代新書)という本を献本頂いていて、ちょうどよいタイミングだったので新幹線のお供になりました。

著者のご専門は進化生物学、生物統計学で、系統樹の推定方法に関する理論を研究されているとのこと。
「系統樹思考ーー「樹」は知の世界をまたぐ」という観点が面白いと思いました。
例えば、欧文書体のタイムズなど、ローマン体と称される書体のルーツは、紀元二世紀の「トラヤヌス帝の碑文」に求められること。
比較文献学では、現存する複数の古写本(異本)間の比較を通じて、失われた祖本の構築を目指して写本系図を構築する。
この方法論を言語に適用して、比較言語学でも言語系統樹が(ダーウィンやヘッケル以前の)1853年に発表されている。
あるいは、身近なところでは蕎麦屋の系統、落語家の師弟関係などなど。

ほかにも、なかなか意味深いことばや知らなかった知見が随所にありました。
進化心理学や認知心理学の最近の研究が示唆しているように、データに基づく推論という思考プロセスは私たち人間のもつ生物学的な基盤に発しています。
 たとえば、「ものを分類する」という行為は、私たちが生得的にもって生まれた認知能力のひとつだと言われています。同様に、観察や実験を通して帰納的な推論をすることもまた、私たちのもつ原初的な能力とされています。
・・・
 他方、系統樹思考には進化的な概念体系が必要になります。つまり、対象物の間に何らかの由来に伴う系譜関係の存在(生物であれば、祖先子孫関係)を仮定し、その関係に基づいて対象物を体系化するという思考法です。


植物学者の早田文蔵(1874-1934)という方が20世紀初頭に著した「動的分類学」の理論体系では、非常に多数の遺伝子間の関係を、色分けされた○と複数の曲線を用いて多次元化したネットワークとして描いているというのは、現代のシステムバイオロジーの先取りのように思えます。

演繹でも帰納でもない第三の推論様式としてアブダクション(abduction)というやり方があり、これは、19世紀の哲学者チャールズ・S・パースの言葉に行き着くが、人工知能の研究を通じて磨かれ、ジョセフ損夫妻によれば以下のように定式化される。
前提1 データDがある。
前提2 ある仮説HはデータDを説明できる。
前提3 H以外のすべての対立仮説H’はHほどうまくDを説明できない。
結論 したがって、仮説Hを受け入れる。

この場合の「最良の仮説」は、ある時点のデータと対立仮説との比較により得られた「知的推測」であり、さらに新しいデータが加わったり、想定しなかった新しい対立仮説との比較により、その推測が覆される可能性がある。

普段私たち(ここでは、実験生物学者の意味ですが、適応範囲はかなり広いはず)が行っているのは、古典的な仮説の「真偽」をよりどころとする演繹や帰納とは別だと思っていましたが、こういう言葉や定義があることを改めて知りました。

本書にはさらに筆者の専門である系統樹を描く際の最適化の仕方について述べられていますが、ここでは割愛致します。
巻末の「さらに知りたい人のための極私的文献リスト」には、面白そうな本がいろいろ載っていました。
三中さん、有難うございました。
by osumi1128 | 2006-08-12 23:47 | 書評

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