大阪大学の事件についての私見
2006年 09月 12日
博士課程大学院生のブログにも取り上げられているくらいなので、掲示板ではどのくらいの書き込みがあるのだろうか。
5号館のつぶやきさんのところでは、
大阪大学と言えば、日本でも超一流の大学です。そんなところで、こんなお粗末なねつ造論文投稿事件が起こるということ、しかもここ数年はそういうことに社会の目が厳しく注がれているということもわかっていたはずなのにそんなことが起こってしまうという、この耐え難い緩さの原因が単に個人のレベルにあるものではないことは誰の目にも明らかなはずです。
この件に関しては、文科省から我々ひとりひとりに至るまで、日本の研究体制すべてが責任を負わなければなりません。具体的なアクションプランは、学術会議など科学者側から出すべき時ではないでしょうか。
とコメントされているのだが、一体何が即効性のある対策かと考えると、有効な手段というのはなかなか見いだせない。
一人の人間が自ら死を選ぶときに、その直前の瞬間には「ゆらぎ」のようなものもあろうが、一定期間、通奏低音として鳴り響いていた不安なり怒りなりは、きっとあったのだろうと思う。
8年ほど前に、非常に優秀な研究者であり、私にとって大切な友人であり、現在研究を続けていられるのも、その人の存在や言葉があったからこそという方が若くして亡くなった際に、何で自分は生きているのだろうと考えたことがあった。
その人の存在に比べたら自分は本当にちっぽけなもので、生きている価値などないのではとも思った。
それでも、私には死を選択することはできなかった。
ただ、自分なりに精一杯やるしかない、持って生まれた能力を活かすことしかできないと自覚した。
以来、座右の銘は「一期一会」である。
今回の事件、あるいは拡大すれば、ここ1年ほどの間に明らかになった一連の生命科学系におけるミスコンダクト事件の背景にあるのは、過度の競争原理、市場原理ではないかと私は思う。
すでに、毎日新聞の「論点」(2006年2月11日)にも以下のように述べた(全文はリンク先の「エッセイ集」参照)。
論文は科学者にとっての大切な「作品」である。手塩に掛けて、誠意を込めて生み出すものである。良い論文とは、本来、掲載された雑誌の格付けで決まるものではない。また、新しい概念を打ち出すようなオリジナルな論文であれば、発表されて数年の間の被引用件数が少ないこともあるだろう。科学者コミュニティーは自らの倫理観と自尊心にもとづき、不正行為を防がなければならない。さもないと、非専門家により、研究の中身ではなく数値化された業績によって評価され、それはさらなる不正行為を生むもとになる。同時に、科学の世界は必ずしも市場原理に則ったものではないことを、社会は認識し、許容すべきである。過度の競争は良い科学を醸成することには繋がらない。
私がアウトリーチ活動や、サイエンスエンジェルなどの次世代育成に取り組むモチベーションは、非常に間接的ではあるが、研究者コミュニティーが社会から認知され、できればリスペクトされるようになってほしいという願望からである。
おそらく大多数の生命科学系研究者は「自分は不正とは無縁である」と考えていると思う。
私はそう信じているし、もしそうであるならば、ほんの少しずつでもいいから、社会へ向けて研究の面白さや、5年後の製品開発には役立たなくても、20年後、50年後につながりうるという話を、身の回りの人たちに伝えてほしいと願っている。