研究不正関係本2冊
2006年 10月 31日
先日の三島の行き帰りに読んだものと合わせて紹介したい。
『論文捏造』(村松 秀著、中公新書ラクレ)
『国家を騙した科学者』(イ・ソンジュ著、ペ・ヨンホン訳、牧野出版)
前者は、NHKの科学・環境番組部専任ディレクターの方が作成した「史上空前の論文捏造」の取材をもとに書籍化したもので、内容は、米国ベル研究所の研究員だったヤン・ヘンドリック・シェーンの高温超伝導にまつわる事件。
後者は、ヒトクローンES細胞を作るなどの(実は捏造の)功績により国民的英雄となったファン・ウソクと、マスメディア等のあり方について、元東亜日報記者が書いたもの。
対比として、世界で起きたさまざまな研究不正の事例も後半で取り上げられている。
ドキュメンタリー本としては前者の方が面白く、後者はやや内容を詰め込みすぎて、またさまざまな事象の時間的なものが前後して何度も出てくるのでやや読みにくい点もあったが、科学と報道がともに「民主主義的であるべき」という主張が、あらためてなるほどと思った(後述)。
2冊読んで、この2名の研究者に共通する行動パターンが浮かび上がってきた。
まず言えることは、不正は不正を呼ぶ、捏造する研究者は捏造を繰り返す、という点である。
シェーンはたった数年の間に数十報の論文をNatureやScienceを含む雑誌に掲載していたが(なんと、1週間に1本くらいのペース)、調査委員会が調べた十数報すべての論文で不正が見つかった。
ファン教授は、特許申請等を理由に論文を発表していないにもかかわらず、プレスリリースはし続けて、乳牛のクローンを最初として、BSI耐性クローン牛、虎のクローン、無菌豚を作ったとし、そしてヒトクローン胚由来のES細胞の論文を2本Scienceに発表し、国家プロジェクトとして巨額の研究費を受け取っていた。
次に挙げられるのは、権威が付随すると不正が暴かれにくくなるということだ。
シェーンの場合は直属の上司がすでに業界で名の通った研究者であり、最初の不正の論文はその加護のために世に出て、センセーションを巻き起こした。
ファン教授の場合には、乳牛のクローンを作ったあたりですでに大御所になっていたらしい。
3つ目に言えるのは、おそらく最初の不正を見逃してしまうことが一番問題なのではないかという点である。
シェーンの場合には、上司が生データや実験サンプルを確認せず、その結果に驚き、喜び、一挙に論文投稿ということになってしまったことが問題だった。
ファン教授の場合には、論文が出ていないにもかかわらず、マスコミがそれを問題視しなかった。
どちらのケースも、捏造論文ではデータの使い回し(それは、コンピュータで論文を作成するような時代になったからこそ容易に行えるようになったのだが)が、疑いを持った研究者によって発見されたことをきっかけに、不正が暴かれていった。
後者の本では、科学における対話とマスメディアにおけるそれを近似させている。
既存の知識に満足できない、あるいは他の人は分かっているのに自分は理解できないという理由から、核心的な問題提起をする誠実な人たちが、いつの世にも少数ながら存在するものだ。
カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』
ドイツの社会哲学者、ユルゲン・ハーバーマスの『意思疎通論』によれば、人はある主題について対話をするとき、本当のことを言ったり嘘をついたりする。したがって、論証が可能な主張をしてこそ対話が続けられるのだ。相手が疑問を提起すれば、論証の義務が生じるので、当然、根拠を示さなくてはならない。
ハーバーマスはこれを真理に接近する過程と定義した。真理とは、こうした手順を踏まずに与えられる客観的な実態ではなく、手順の結果として生じる。
シェーンの場合は、誰も追試ができない数年の間、業界のスーパースターとして祭り上げられたが、ファン教授の場合には、韓国でも国外でも、科学者はその成果に疑問を持っていたにも関わらず、それが世論には届かなかった。
MBC(韓国のテレビ局)をも屈服させる巨大な力に、誰が立ち向かおうとするでしょうか。国益のために口をつぐみ、息を潜めて黙っているほうが正しいのかもしれません。しかし、私たち科学を志す者たちは視野が狭く、いかに小さな現象でも、納得ができないことには際限なく「なぜ?」と叫び続けるしかありません。私もそんな一人です。
これは、ファン教授の2005年の論文の中から捏造の決定的証拠となるDNA fingerprintの問題を探し出した、地方の国立大学で生物学を専攻する博士課程の大学院生が、インターネットサイト「ブリック」に載せた文であるという。