グレート・ギャッビー

メルボルンからシンガポールへの直行便の機内で、村上春樹が書き下ろしたばかりの翻訳『グレート・ギャッビー』(スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、中央公論新社)を読んだ。

『華麗なるギャッビー』という邦題の映画を観たのがいつ頃だったのか、印象に残っているのが1920年代の景気の良いアメリカの(当時)モダンな服装の男女の姿だけなのは、きっと中身を味わうには人生経験が足りなかったからなのだろう。
誰と観たのか、その場の情景さえ思い出せないことから察するに、夜中のテレビで放映されたものだったのかもしれない。
いずれにせよ、今回はじめてストーリーを理解した。

かなり長めの「訳者あとがき」で切々と述べられているように、村上春樹はこの本に非常なこだわりを持っていたらしい。
「六十歳になったら翻訳する」と三十代後半に決めていたのだが、それをやや前倒しにしたという。
そういう思い入れもあって本は和田誠の装丁による「愛蔵版」(「グレート・ギャッビーの頃のニューヨーク」という付録付き)は、手に取ると中身も外見もほんとうに丁寧に作られていることがすぐ分かる。
大事に袋に入れて往路のトランクに詰め込んできた。
メルボルン滞在中には読む時間が取れず、ようやく次の目的地までのお供として機内持ち込みにした次第。

ご存じのように、村上春樹は小説も書くが翻訳も手がけていて、その両方の執筆については『翻訳夜話』(柴田元幸との共著、文春文庫)に詳しい。
ストーリーのしっかりしたミステリー以外、ふだん外国小説をあまり読まないのは、いかにも「翻訳」であることが見えてしまうことが多いからなのだが、この本は、そういう「翻訳臭さ」がまったくないことにまず驚いた。
そのために、どれだけコトバが吟味されて選ばれ、使われているかを思うと、やはりプロの方は違う、と降参したい気分だった。
いや、別に張り合う気は毛頭無いのだが、自分でも翻訳本を、しかも、一応「一般向け」に書かれた本を訳して上梓した経験から、ボキャブラリーの違いがどれほど大きいかを改めて思い知った気がするのだ。

したがって、中身についての「書評」を書くような気分ではないのではあるが、訳者自身が「同時代のヘミングウェイよりも先駆性があり、今でも古びていない」と評していたことは記しておこうと思う。

本は永遠のエンターテイメントであり、時代を表す文化である。
丁寧に作られた本は、それに関わった人たちの思いを長く伝えるものになる。
ふいに、高校生のときに買った「芥川全集」の1冊目の配本が家に届いたときのことを思い出した。
箱の中から取りだした渋い布の装丁に金の背文字のその本は、いかにも大切そうに薄いハトロン紙にくるまれていた。
そっと表紙を開き、頁を捲る指に伝わる感触もまた、本の楽しみといえよう。
来週、東北大学出版会の主催する会で講演を依頼されているのだが、本にまつわるこんな話をしてみたい。

* ****
さて、上記は本を読んだ後に機上でタイプしたものですが、その時点で実はまだシンガポールの宿が決まっていませんでした。
別にブログ読者にハラハラ・ドキドキしてもらうためのネタを探そうと、自らそうしている訳ではなく、単に忙しくて出張直前からインターネットで探しまくったのですが、クリスマス休暇やら、市内でいろいろな会議が重なっているらしく、八方手を尽くしてはみたけど駄目。
シンガポールと東京に研究室を持つOさんにも泣きついたのですが、「最後の手段として、空港に着いたら当日予約のデスクに行ってみて。必ずあるはず」と言われました。
もちろん、こうして過去形で書いていられるのは、そしてブログにアップできているのは、いちおう無事に部屋を確保したからなのですが、それも1晩だけ。
やれやれ、心安らかだったのは本を読んでいるときだけだったかも。
明日から東北大学の医工学21世紀COE主催による国際シンポジウムに参加するのですが、今晩はこれからレセプション。
by osumi1128 | 2006-12-03 18:32 | 書評

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