三十一文字、あるいは五七五

日本語は発音のバリエーションが少ない方の言語だと思いますが、ええと「あ」から始まって「わ」「ん」まで、約50文字で表されます。
そうすると、和歌や俳句(川柳でも)は日本語という発音で表す場合には有限の組み合わせから成るものに限定されてしまうと思うのです。
それは、数えられないくらい大きな数だとは思いますが、有限であることには間違いありません。
ということは、いつか、川柳の世界では、もう新しくオリジナルなものが作れない、という状態に飽和する訳ですね。
俳句は季語を入れないといけないので、さらに限定が加わるかもしれませんし、字余り・字足らずを入れればバリエーションは増えそうですが、だからといって、六八六にしてしまったら、もう日本語としてのリズムも何もあったもんじゃありませんから、俳句という範疇には入らなくなりますね。
数は多いでしょうが、三十一文字の和歌も同様です。
だとすると、このような文学のジャンルというのは、将来どうなるのでしょう?

同じことを考えるのは、行き帰りの車の中でクラシックを聴くときです。
人間の聴覚で聞き分けられるように音階というものを設定(デジタル化)すると、例えば2オクターブの範囲で作れる旋律の基本構造は明らかに有限です。
もちろんリズムでかなりのバリエーションは生み出せますが、それも、人間の耳で聞き取るという限定が付くので、無限とは考えにくいように直観します。
しかも、その組み合わせの中で「心地良い」と思えるものはすべてではなく、したがって、いずれ音楽も新しい心地よさを生みだすことができなくなって衰退するのではないか、と思うのです。

もちろん、人間の生活に音楽は必須であり、心を和ませたり、浮き立たせたり、逆に悲しみに沈ませたり、という効果があるので、音楽そのものが亡くなる訳ではないですし、音源は無限に近いくらいの多様性があり、演奏する人によっても個性があるのかもしれませんが、それでも、西洋音楽が確立し、古典から歴史を経て、前衛になると、もう進歩とは言えないように感じています。

和歌の世界には「本歌取り」という手法があり、元歌の一部を引用することが多い訳ですが、これは伝統的に「盗作」とは見なされません。
俳句は短いので「本歌取り」は難しいでしょう。
音楽の世界では、同じ作曲家なら大丈夫なのでしょうが、他人が同じフレーズを用いたら「盗作」になりそうです。
(1小節くらいなのか、2小節くらいはよいのか、そのへんの基準は知りませんが)

ずっとこのことを考えていて、いつか書こうと思っており、書いてみたのですが、まとまりのない文章になってしまいました。
すみません。
by osumi1128 | 2007-02-07 02:31 | 雑感

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