恩師の本を読んで

エール・フランスでの渡欧だったので、久しぶりに成田空港の第一ターミナル北ウイングに行きました。
お引っ越しした全日空のある南ウイングは綺麗になったのかもしれませんが、北ウイングはちょっと寂しい感じがしました。
パリ便AF275はほぼ時間通りに飛び立ち、機上の人となりました。
以下、ちょっと長いエントリーになってしまって恐縮ですが、お時間のあるかたはどうぞ。

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ちょうど昨日、ちょっと分厚い封筒が自宅に届いたのですが、差出人を見ると中学時代の恩師のお名前がありました。
中には、国語の教師であったI先生が御定年になってから15年で自費出版された本が入っていました。
『いまはむかしのひとりごと』というタイトルが付けられ、装丁のない簡素な文庫本で234頁あります。
今回の旅のお供にどの本を連れて行こうかと思っていたところでしたので、迷わずこちらにしました。

余談ですが、普段はたいてい四六判くらいの本を一、二冊トランクに入れるのですが、今回の海外出張は最初の予定が詰まっているので、すべてキャリー・オンにする覚悟でパッキングしており、空港で文庫本を買おうと思っていたのですが、実際にはそれだけの時間の余裕がなく(空港で報告書の中身を秘書さん宛に送ったりしていたため)、持参したI先生の御本は新幹線から成田エクスプレスの間に読んでしまったので、現地でどうするか思案中。
ネットで落とせる小説でも探してみましょう。

さて、「まえがき」の中に「この本は自分史ではありません。個人的に知らない方が読んでも、まったく面白くないでしょう」と書いてありましたが、私にとっては大事な先生なので、先生がどんな風に75年を過ごされたのか、とても興味がありました。
ちょうど、先生にお目にかかった中学時代は、先生のキャリアにとって折り返し地点にあたり、また、定年後、どのように過ごされるかを考えていた頃のようでした。
ふと気が付くと、自分も今ちょうど同じくらいの歳なのですね。

I先生は神奈川県で教員免許を取得され、最初は小学校、それから、ほとんどのキャリアを中学校の教師として過ごされました。
御本の中には、教材研究をどのように工夫したか、いかに生徒のことを知ろうとしたか、そのために放課後のクラブ活動(卓球)を行ったり、おしゃべり会をしたり、というような私の知らない中学教諭の世界のことが沢山書かれていました。

ご自分のことを「餓鬼大将」と分析されるように、反骨精神と、生徒まで巻き込んで何かを成し遂げるパワーを持っておられる方で、それは当時の中学生だった私たちにも伝わっていました。
その中学校は昔の高等師範の附属という歴史があって、教育のモデル実験校のようなところだったのですが、先生の授業にも様々な工夫がありました。
確か、毎時間の始めの10分は漢字のテストだったのですが、それは、教科書に載っている教材(読み物)をすべて用いないことによって、指導要領に含まれていても教えられない漢字をカバーするためであったのですね。
今でも覚えているのは、「要約の作り方」で、「重要度の低い字句を消す」というやり方と、「大事なキーワードを拾う」という2つのやり方で作ってみる、という授業です。
それまで、なんとなく行っていた作業も、効率の良いやり方がある、ということを知ったのが新鮮だったのだと思います。
「書く」ことの楽しさを教えて頂いたのもI先生でした。
きっとそれが今、ブログをしたためることに繋がっているのでしょう。

I先生は、ちょうど私たちの中学にいらした頃に体調を崩されていたらしいのですが、当時の我々には「小田原から鎌倉まで毎日車で1時間半かけて通っておられて、大変らしい」くらいしか分かっていませんでした。
慢性胃炎ということでしたが、おそらく胃潰瘍との間を行ったり来たりという状態だったのではないかと拝察します。
今なら、きっとピロリ菌駆除などで比較的早く完治されたかもしれませんが、胃潰瘍の原因の1つにそんな菌が関わることが分かったのは、私が助手になった頃だったでしょうか。
ノーベル賞が与えられたのも、つい最近です。

体調の理由もあり、県の教育庁への異動という出世コースのお話を断られ、地元の小田原にまた戻られたのですが、その数年後から、いわゆる中学校が荒れた時代になったようです。
どんな風に、番長その他の生徒と対応したのかなどがリアルに書かれていました。
最後の数年は教頭先生となられたようですが、御定年の1年前に国語の教師が足りないとのことで、管理職と現場を掛け持ちされたとのこと。
「最後に現役で終わった」ということを誇り高く思われるのがI先生らしさでした。

小田原に戻られた後に、教師が面白くなくなった、ということが書かれていました。
それは、いわゆる「ゆとり教育」という改革のためで、「総合学習」の時間をどうするか、という会議を放課後に開かなければならなくなったり、研修などの出張が多くなったりということで、生徒と触れ合う時間が結果として減ってしまったことが諸悪の根元とI先生は言われます。
本当は、今行われている「教育再生会議」も、現場をよく知らない人たちを集めて、何を議論しているのか、「ふざけんじゃねぇ!」と怒る先生の声が聞こえそうでした。

現在、大学で教育に携わる人間の立場からは、博士号取得者やポスドクの就職先として中学・高校の理科教師に門戸を開くことを要望したり、小学校の理科を教える教師を派遣することについてはすでに予算化されていますが、現場の混乱を招かないように、極力注意しないといけないでしょうね。
また、経済界も「働く意義を教える」ために、講師を中学校などに派遣することを決めたということですが、こういうことも気を付けないと、余所者が勝手に入ってきてかき回すだけ、という結果を招きかねないでしょう。

先生がさらに指摘されていたのは「高学歴化」の問題です。
日本全体でそんなに高学歴になるのが本当によいことなのか? という問いは、しばらく前から私も考えていました。
どんな専門的仕事でも、最初10年はひたすら覚えたりチャレンジし、次の10年で自分なりに展開していくとしたら、一人前になるのに20年はかかります。
義務教育を終えて現場の仕事に就くと、10代後半から修行を積むことになり、35歳でかなりの立場になる訳ですが、ズルズルと大学まで進学すると7年以上遅れることになります。
「高度専門教育」が必要な科学技術分野といっても、大学院からは生活できる程度の奨学金を出して、修行の期間として扱うべきだと考えているのですが、そのサポートは現行の大学院定員をすべてカバーはできないでしょう。
そもそも、本当に大学院指導をするだけの力のない大学も、あの「重点化」の時期に皆、右にならえ、で後先考えずに大学院を作ったことは、きわめて日本的現象だと思います。
今、21世紀COEやらグローバルCOEやら、特色ある大学院GPやら、そういうグラントを競争によって獲得させることによって大学をふるい分けしようとしているのかもしれませんが、これ以上続けると現場の疲弊が著しくなりすぎて、きっとイノベーションどころか、普通の教育さえもまともにできなくなるかもしれません。

・ ・・そんなことをいろいろ考えさせられたI先生の本でした。
定年後、先生はご自宅の二反の田んぼで「キヌヒカリ」というお米を作る毎日で、そのほか、昔撮られたモノクロの写真を現像したりという悠々自適の暮らしをされているようです。
もう長いことお目にかかっていないのですが、是非一度、お訪ねしようと思いました。

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無事にパリに着きましたので、こちらをエントリーしておきます。
Commented by つか at 2007-03-29 10:55 x
地方にもいい研究室はあるし、旧帝大にもダメな人はいる。全般的に縮小して、その代わり進学できた学生には手厚いサポートをすべき。
Commented by osumi1128 at 2007-04-04 01:39
つかさん、こんばんは。
仰る通りです。私の言う「大学院指導する力の無い大学」というのはイコール地方大学ではありません。親の財力にもよると思いますが、進学する学生さんでそれなりの成績の人は、学業に専念できるだけの支援をすべきと思っています。
by osumi1128 | 2007-03-27 06:14 | 雑感 | Comments(2)

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