手描きによる観察

今日は久しぶりに雨が降って、少し気温が下がりました。
やれやれ……。

ちょうど昨日から平成19年女子高校生夏の学校が国立女性教育会館で開かれています。

今年も100名くらいの女子高校生達が集まったようです。
今日はちょうど実験・実習がメインだったはず。
個人的なつてでサイエンス・エンジェルさん1名にも参加してもらっています。
8月にいろいろと出張が立て込んでしまって今年は参加できませんが、皆さんが楽しい時間を過ごしてくれていたらと思います。

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和文原稿の1つを脱稿して、ちょっとほっとしています。
シリーズ朝倉「言語の可能性」の「4.言語の生物学」のうちの1章「言語の遺伝学的基盤」を担当しました。
自分自身で研究している分野ではありませんが、個人的にはとても興味があり、長谷川寿一先生からお声掛け頂いたのでお引き受けしました。
人間がどのようにして言語を獲得したのかについて、現在では、心理学的アプローチだけでなく、発生生物学、比較ゲノム学、脳イメージング、ヒトの遺伝学などのデータを複合的に取り込んで考えることが可能になりつつあります。
非常にエキサイティングな分野ですね。
今、自分が大学院生だったら迷わずこの分野に入っていくのではないかと思います。

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最近は文章を書くのに、かなりインターネットに頼っています。
PubMedにつながっていれば、すぐに文献も調べられるし、辞書機能もあるし。
そういうときに、たまたま行ったキーワード検索などで、思いがけず面白い情報に出会うことがあります。

ちょうど、スペインの解剖学者カハールのオリジナル文献を探そうと思ったのですが、なにせ1920年代の論文はPubMedでは探せません。
ちゃんと文献を辿ろうと思ったのですが、ついググってみたところ、こんなサイトを見つけました。
JTの生命誌館の館長、中村桂子先生がm写真家の港千尋氏と対談したものが、生命誌ジャーナル2005年夏号に掲載されていて、それがwebで読めるようになっていたのでした。

タイトルは「観察による手描きと再認を求める写真」。
腑に落ちるという言葉がぴったりの意見がたくさん載っていました。

19世紀になって、それ以前に花開いていた動植物の細密画が、忽然と消えてしまったのは、おそらく「写真」というテクノロジーが現れたためと考えられるのですが、それによって人間の思考そのものも変わっていったのではないか。
一つには、人間の「眼」と「手」が分離した。
そして、もう一つには「時間」が無くなった。
眼で見て、理解して、手の動きに伝える。
描かれたものを見て気に入らなければ、また描き直す。
そのような構築的な回路が「観察」であり、観察するにはそれ相応の時間が必要。
それが、写真技術の発明によって、がなくなってしまった。


細密画は19世紀にすでに廃れてしまっていましたが、科学の世界では20世紀前半くらいまでは、まだまだ「スケッチ」全盛時代でした。
今でも、神戸にいる友人のKさんなどは、美しいスケッチを描く才能をお持ちで素晴らしいと思うのですが、私はスケッチ力はからきし駄目。
歯学部の学生時代、組織学、病理学ではスケッチが必須なのですが、つくづく「画才がないなあ……」と情けなく思っていました。
幸い、大学院の頃では、組織のデータは写真に撮れば良かったので、かろうじて生き延びることができた訳です。
といってもその頃は、まだフィルムに撮って現像したり、してもらったりの時代でしたが。

当時、ボスからは「スケッチをしなさい」と、かなりしつこく言われていました。
そのため、論文用にはもちろん写真を撮るのですが、ノートには沢山のラフスケッチを描きました。
そのせいか、写実的に描くことは不得手なのですが、「模式図」は比較的得意です。
私にとっては、すっきりとした模式図が描けると、その生命現象を理解したと思えるのです。

対談の港先生の言葉の中には、カハールも弟子達に「見て描かなければ、ものは理解できない」と、デッサン(スケッチ)の重要性を説いていた、とありました。
数々の美しいスケッチを論文の中に残し、詩的な考察を紡ぎ出したカハールなら当然のことでしょう。
当時、まだ単眼だった顕微鏡を片眼で観察しながら、片眼でスケッチを描く、そんな様子は現存するカハールの写真から容易に想像できます。
時間をかけて丹念にスケッチを描く、その時間の流れの中で、さまざまな想像が言葉に変わっていったのだと思います。

写真家がなぜ写真を撮るかという理由には二つある。
一つは「感動して撮る」。
その感動は他者も共有しうる。
もう一つは「撮影の瞬間には見えなかったものを、もう一度、よく見たいと思うから撮る」。
何度も見て「再認」するのが写真家の仕事。
1枚しか使わないと分かっていても、たくさん撮り、その中から1枚をどう選択するかに、エネルギーを注ぎ込む。
そこに「時間」を必要とする。


膨大な数、撮影された中から「これ」という1枚を選ぶのがプロフェッショナルだとは思っていましたが、「再認する」ために行っていたというのは新鮮な感動でした。

私の大学院時代は「写真撮影」でしたが、今はさらに時間が短縮され、「デジタル画像」の時代です。
写真撮影は「現像してみないと上手く撮れていたか分からない」ので、ちょっとずつ露光時間を変えたりして、何十枚も撮り、しかもそれが蛍光染色の標本だったりすると、真っ暗な顕微鏡室で10分以上もじっとシャッターが下りるのを待っていたりしたものでした。
その間に、観察した像をノートにスケッチしたり、「ああなっているのかな、こうなっているのかな」と思いを巡らせたりしていたのですね。
CCDカメラによる画像データ取得は、モニタを見ながら良い条件を選んで、マウスをクリックすれば、はい、一丁上がり。
撮影の失敗は少ないですが、もしかすると対象をよく見つめる時間が足りないのかもしれません。
もう少し、学生さんの指導のときに、気を付けて注意しないといけないと再認識しました。

港先生(多摩美術大学の教授でもあります)の言葉が素敵だったので、さらにググってみたところ(こうやって、時間がどんどん過ぎていくのですね)、写真集の他に、何冊もの著書もありました。
『洞窟へ:心とイメ−ジのアルケオロジ−』というタイトルと表紙はどこかで見たと思ったら、うちのスタッフNさんが、以前ニュースレターBrain & Mindに書評を載せていたものでした。
早速、Amazonにてクリック(=購入)。
by osumi1128 | 2007-08-18 02:16 | サイエンス

大隅典子の個人ブログです。所属する組織の意見を代表するものではありません。


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