これからの学会は何のためにあるのか?
2007年 12月 12日
事前登録の時点で参加者が、分子生物学会のみの会員として3700名、生化学会のみが2000名、両学会に所属している方が1000名、合計7300名で、きっと8000名は軽く超えるのだと思われます。
特別講演、マスターズレクチャー、シンポジウム、ワークショップ、フォーラム、一般演題(口頭発表、ポスター発表)と全部で6500題くらいの規模は、ライフ系最大です。
お昼時は企業がお弁当を出すランチョン・セミナーも定着して34セミナー開催。
企業の展示ブースも300社ほど。
ものすごく大きなお金が動いているのですね。
生化学会は今回が第80回と歴史が古いのですが、分子生物学会は今年ちょうど第30回。
分生の第1回は1978年に東京で行われて、そのときの発表件数が160題ほど、会員数は600名とのことでしたから、30年の間に演題数にして40倍、会員数にして20倍になったということですね。
まさに、日本のライフサイエンス分野がどのように進展したかということの象徴に思えます。
「分生が大きくなりすぎた」という声はよく耳にします。
「昔は丁度良い大きさだったけど、今はなかなか人にも会えなくて……」など。
確かに、これは「大きい」規模の学会ではあるのですが、例えば北米神経科学学会は会員数が5万、演題数が2-3万、というさらに桁の違う規模で、ポスター会場を端から端まで歩くとものすごいエクササイズになります(笑)。
昔の学会は、その学問に関わる方達が手作りしていました。
いわゆる「手弁当」というレベルのことです。
今でも、小さな「研究会」などは開催されますが、当時はそこそこの学会でも、大学の講義室などが会場であることが普通でした。
(私の学会デビューは、駒場が会場だった細胞生物学会でした)
したがって、学会を開催するのは講義の無い春休み、夏休みなどが多く、年会長の研究室や同じ大学の研究室メンバーが総出で、受付から会場係までをこなしていたものです。
いつしか、都市には大きな会議場が作られ、そういう場所で学会が行われることが多くなりました。
当然、大学の講義室はかつてはタダで借りられた訳ですが、外の会議場は会場費が派生します。
そのために、年会長の大事なおシゴトは「お金集め」となりました。
つまり、参加者から徴集する参加費では賄えない規模になっていったのですね。
一方、そんな風に人が集まるなら宣伝効果も高い、と気がついた企業が展示ブースを出すようになり、ここからは所場代を徴収できる仕組みが作られました。
さらに、日本では食事がいつも後回しになる文化なので、会場付属のレストランはキャパもなければ味もコスパが悪く(だって足下見てますから)、それなら、ということでお弁当付きのランチョン・セミナーが流行るようになりました。
そうやって出来上がってきたのが、日本のライフ系の大きな学術集会です。
この変化の間に、確実に失われたことが一つあります。
それは、かつての「手弁当」時代には、研究室の学生まで借り出されて、準備から運営までが行われ、皆、大なり小なりいろいろな経験を積むことができたのですが、今はいわゆる「学会屋」さんにお任せで、若手はいわば「お客さん」として参加するだけになったということです。
もちろん、学会のお手伝いなど、研究成果にはほとんど何も結びつかない活動なので、それをしない方が「効率が良い」のかもしれませんが、そうやって、「研究しかできない」人材を育てていることになっているのではと危惧します。
(そこを何とかしたいと考えており、私たちのグローバルCOEでは「若手企画」のセミナーや展示などを活動に取り入れています。)
今後、学会という組織はどうあるべきなのか、私は「二極化」すべきと思っています。
大きな学会はそのスケールメリットを活かした事業を展開すべきでしょう。
それは、学会員へのサービス(年会の開催など)と同時に、活動のうちの何割かはCSR(cooperative social responsibility企業の社会的責任)を果たすべきと思います。
例えば分子生物学会であれば、「ゲノム研究は人の健康や福祉にどのように関わるか」「組み換え生物の安全性」「研究倫理」などについて、きちんと社会に向けて発信し、似非科学を駆逐することが必要でしょう。
そのためには、専門性を持った人材が不可欠です。
学会員へのサービスとしては、研究成果発表の機会を与えるというだけでなく、若手研究者向けには「論文の書き方」「研究費の申請の仕方」「PIになるには」などのセミナーも、もっと開催されて良いと思います。
一方で、いわゆる学会誌の出版については、整理すべきと思います。
小さな学会までもが国からの補助を受けて学会誌を出すことのメリットはあまり大きいとは思いません。
学会からのサポートによるものにするのか、最大に利益を得るのは論文を載せる研究者なので、その投稿・掲載料を主体とした運営にするのか、そのあたりはいろいろな事情を鑑みないといけないでしょうが。
いずれにせよ、こちらにも専門のスタッフ(研究が分かる、英語が使える、webに明るい)人達が中心となるべきで、これまでのように、忙しい研究者が編集長兼小使い、というような体制では難しいと思います。
上記のような大きな学会は、その「公益性」を大いにアピールし、企業や個人からの寄付をたくさん募って、健全な経営を目指すべきでしょう。
就職希望の若手研究者にとっての企業紹介コーナー等は双方にとってのメリットになることと思います。
逆に、小さな研究会レベルの組織というのも大切だと思います。
それは、資産も持たず、法人格も持たない、アドホックで流動性のある形が望ましいでしょう。
ほとんどの連絡はwebを利用することにより、通信費ゼロ円で行うことが可能ですし、研究会1回ごとの参加費で帳尻を合わせるような経営で良いのだと思います。
あるいは、日本でもいわゆる研究会の主催のみを行うNPOなどが成り立つかもしれません。
イメージとしてはアメリカのGordon Conference、Keystone Meetingといったやり方で、NPOは裏方の一切を仕切り、オーガナイザーの研究者はScintific Programを決める(つまり、スピーカーを人選する)ことに徹する、という分業体制です。
かつては財団主催でそのようなミーティングがありました(今でもありますが、やや下火です)。
最近、抗体のメーカーであるアブカムという会社が、ミーティング業を展開していて、100-200名くらいの規模のミーティングなら非常に有り難いサポート体制です。
というのは、研究費を用いて主催するミーティングは、何かとお金が使いづらいところがあるのですが、企業はそのあたりが違うからです。
ただし、Abcamは半分は会社のCSRとしてミーティング主催を行っている訳ですが、もちろん会社にとってもメリットがあるからやっているので、企業とは独立した組織が存在することも必要なのではと思います。
……というようなことを最近よく考えるのですが、いくつかの学会の理事会や評議員会でそれとなく提案してみると、うーん、年上の先生方には「はぁ?」というお顔をされてしまい、あぁ、まだ時期尚早なのだなと感じています。
でも「アカデミア」で生きる道とは、「大学・研究所の中」だけではありません。
博士人材を活かす職を作り出すのは、やろうと思えばできることだと思います。