『猿橋勝子という生き方』
2009年 04月 13日
プロローグは1954年3月1日のビキニ諸島沖で行われた米国による水爆実験のことから始まります。
広島・長崎の原爆の影に隠れ、第五福竜丸の船員達が第三の被爆を受けたことが取り上げられるのは、さほど多くありません。
この悲劇がいったい、どのように猿橋先生と関係するのだろうと思って読み進むと、いわゆる「死の灰」の成分を分析されたり、水爆実験による海水の放射能汚染について、米国側が主張していたものよりもはるかに酷い状況であるというデータを出されたのが猿橋先生だったのでした。
2007年に亡くなられた猿橋先生のお名前は、小さな時から母を通じて聞いていましたし、お名前を冠した「猿橋賞」は女性科学者に与えられる賞として30年弱の間にすっかり定着してきましたから(私たちの世代では数学科の友人K先生や、名古屋大学の森郁恵先生も受賞者です)、非常に身近な方のように思っていたのですが、科学の世界でどのようなことをされてこられたのか、きちんと理解していませんでした。
戦前の、まだ女性が大学に進学できなかった時代(1913年の東北帝国大学のケースは例外的なものです)、いったんは高等教育を受けることを諦め民間企業に就職したのですが、どうしても学びたいという欲求が高まって、猛勉強をして東京女子医専(現東京女子医大)を受験したこと、創立者であり憧れの吉岡彌生先生の面接を受けて、現実とのギャップにがっかりし、帝国女子理学専門校(現東邦大学理学部)に入学したことが、結果としては猿橋先生の進むべき道であったということでした。
いわゆる「外研」先の東京大学で手取り足取り教えられた三宅泰雄先生という師が最初から「研究者になるべき人物」として導いて下さったことが、人生で最大の出会いであったようです。
平塚らいてうから依頼され、「婦人科学者相互の友好を深め、各研究分野の知識の交換をはかるとともに、世界の平和に貢献する」ことを目的として掲げた「日本婦人科学者の会」を設立したのが38歳の1958年。
当時、米ソが行っていた水爆実験の危険性について主張した猿橋先生は、種々の婦人団体から非難を浴びる、なぜなら、それらの団体は親ソ連であったから、というエピソードは、今でも科学的データやそれにもとづく主張がさまざまな団体の哲学と合わないことによって無視されたりすることを思い出させます。
猿橋先生の女性研究者育成のスタイルは、「差別はおかしい」という理念を声高に叫ぶのではなく、まずは科学者としての研究成果で実績を見せるということがあり、さらに実際にご自分でアクションを起こされるというものでした。
退官記念のお祝い金を元に「女性科学者に明るい未来をの会」を創立し、「猿橋賞」を設立したのが1980年。
日本学術会議会員に立候補して初めての女性会員として当選(←当時のシステム)されたのが1981年。
学術会議の中に「女性研究者の地位分科会」を作られ、政府への要望を出さるなどの運動をされました。
さらに私財1500万円を投じて「公益受託・女性自然科学者研究支援基金」を設立され、上記「明るい未来をの会」の財政的基盤を作られました。
何よりも「科学を通じて社会貢献する」という哲学が猿橋先生の人生を貫いていたものだったと思われます。
ちなみに、この本の著者である米沢先生もまたパワフルな女性研究者です。
癌の手術をされた後の病室でも執筆されていたとのこと。
偉大な先輩の方々には頭が下がります……。