智恵子抄に想う
2009年 05月 30日
夫である高村光太郎の彫刻を見たのが先か、『智恵子抄』を読んだのが先か、今となっては思い出せません。
どちらにせよ、最初の出会いは中学か高校の教科書などであったと想います。
最愛の妻にまつわる詩編等を集めた『智恵子抄』の中で、一番のお気に入りは「レモン哀歌」でした。
レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
一番はじめにこの詩を気に入ったのは、レモンの香気と酸っぱさが死の間際の生を際だたせていると感じたからか、トパーズの透明なイメージが、妻を失った哀しさに合っていると思ったからか、いずれにせよ、智恵子の心の病が統合失調症であったということは、大人になってから知りました。
身近な人の死や苦悩を知った今、あらためてこの詩を読み直すと、静謐な美しさの向こうに底なしの苦悩が渦巻いているのが見える気がします。
智恵子の生年は1886年、没年が1938年とのことですが、女流彫刻家カミ-ユ・クローデル (1864-1943)と時代も重なりますね。
カミ-ユ・クローデルは才能を認められてロダンの愛人となったものの、不当に評価されたことが発病のきっかけとなったといいます。
CRESTニュースレターvol.5「脳と心のお話 第5話」の吉川武男先生のエッセイなどにも書かれています。
(注:このPDFは12メガ以上あり重いのでダウンロードの際にはお気を付け下さい。)
まだ発病する前の頃、東京に馴染めずに一年のうち三四ヶ月は実家に帰っていた智恵子の「東京には空がない」という嘆きには、油絵を認められなかったことの訴えが滲んでいたのではと思います。
光太郎はそれを「あどけない話」としか受け止められなかったのでしょう。
無意識のうちに、妻の才能を認めたくなかったのかもしれません。
山麓の二人
二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡いて波うち
芒ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂へる妻は草を藉いて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
- わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
逃れる途無き魂との別離
その不可抗の予感
- わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙って妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返って
わたくしに縋る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃として二人をつつむこの天地と一つになった。
昭和10年頃の当時には、使える薬物もなく、本人も周囲も、どんなに大変なことだったかと想像します。
光太郎にとっては、詩の中で智恵子を美化し、賛美することによって、自分の心のバランスを保っていたのかもしれません。
今日、ネット検索してみて、いろいろなことを知りました。
智恵子の出身が会津であることは、「阿多多羅山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空」(智恵子抄 、あどけない話)というくだりから知っていましたし、芸術家としての才能があったことも「ちぎり絵」などを見ていましたが、日本女子大学校の家政学部の卒業だったとは知りませんでした。
智恵子が療養していた南品川のゼームズ坂病院の近くには、かつて仙台藩のお屋敷があったために「仙台坂」という名前の坂があることもこんなサイトで見つけました。